片恋・前

 浅ましくて、浅はか。
 そして。
 どこまでも欲深で、意地汚い。
 そんな感情、知りたくもなかった。


「ねえ、知ってる?さくらんぼの茎を口の中で結べる人って、キスが上手いんだって」
 そんな反町の一言は彼が持ってきたさくらんぼがきっかけだった。
 貰ったんだ、と合宿所に差し入れてくれたさくらんぼ一箱。それを談話室でありがたく頂いていた時、反町が実を口の中に放り込むと、短い茎をヒラヒラと目の前に翳して。
 そして、あの会話になった。
「聞いたことあるけど…結べるもんなのか?」
 反町と同じように茎を眼前に翳すと、松山がぽつりと呟く。
「らしいよ。でも俺は出来なかった」
 もうちょっとだったんだよと、反町が少し悔しさを滲ませて笑う。そんな彼にやってみてと促されて、松山は手の中の茎をポイッと放り込んだ。
「ん…んんっ」
「どう?松山、出来そう?」
 嬉々とした反町に見守られながら、松山は口の中の茎と格闘する。だが舌を色々と動かしても、上手く輪になって回転などしてくれない。
 無理、と首を振って松山はリタイアを告げると、口の中から茎を取り出した。
「ダメだ、出来っこねえよ」
「え〜、マジで〜!」
 結ばった茎が見たかったのにと、子供のようにむずがる反町に松山が呆れたように溜息を洩らした、刹那。
「うるせーな、何騒いでんだ」
「っ!」
 いきなり耳元で響いた低音に、松山はぎょっと身体を強張らせて背後を振り返った。
 どくどく、と唸る心臓がうるさい。
「お、脅かすなよ」
 吐息が掠めて熱くなった耳を押さえて隠しながら、松山は背後に迫っていた日向に恨めしげな視線を送る。
「日向さん、出来る?」
「はあ?」
「口の中で結ぶのっ」
 茎を翳しながら勢いよく喋る反町に軽く笑った日向は、松山の椅子にもたれるように身体を寄せてきた。
 それだけの動作に、また意味もなく心臓が跳ねる。息が、苦しい。
「ガキん時にやったことあるな」
「えっ、出来るの?やってみて!」
 ほらほらと急かす反町に日向は苦笑を浮かべると、おもむろにさくらんぼに手を伸ばす。
 不意に日向の匂いが鼻先を掠めて。松山の心臓はまた意味もなく跳ねる。
「お前は出来たのか?」
「は?」
「お前はコレが出来たのかって聞いてんだ」
「う、うっせえな、出来ねえよ」
 だろうなと、見せた笑顔に眩暈がする。
「お前、マジで出来んのか?」
「まあ、見てな」
 さくらんぼの茎を実から外すと、にやりと、日向は口の端を吊り上げた。
「ほら、お前はこっち」
「あ?」
 唇に日向の指が触れ、どきん、と胸が疼くのと同時に、こじ開けられた口の中にさくらんぼの実が押し込まれる。
 それを咀嚼しながら斜め後ろに立つ男を見上げれば、その形の良い唇がこれ見よがしにさくらんぼの茎を銜えていた。
 全身の奥からじわじわと熱がこみ上げてくる。
 この男は何をしても様になるもので、こんな素振りにさえ見とれてしまうのだから、もう自分はとっくに手遅れなのだろうと松山は思う。
 いつの間に、こんなに好きになってしまったのだろう。
 日向は口の中に茎を含むと、目を閉じて薄く笑った。
 何かを食むように緩く蠢く口元にばかり視線がいってしまう。
「出来るかな?出来たら日向さんはキスが上手ってことだよな」
「あ、ああ、うん、そうだな…」
 そんなことを楽しそうに言わないでくれ、と松山は心の中で唸った。
 彼とキスがしたいだなんて。
 仮に、もし自分がそんな叶わない夢を求めだしてしまったら、自分はこの先どうしたらいいというのだろう。『好き』という感情すら、こうして持て余しているというのに。
「…できた」
 男の声に、松山と反町は同時に顔をあげた。
 薄く開いた唇の間。
 そこから覗いた舌の上には、確かに結ばった茎が乗っている。
「すげー!日向さん、キス上手いんだあ!」
 単純に喝采を上げる反町のように素直に喜べないのは、きっと彼のキスの巧みさを自分が身をもって知ることはないと知っているからだ。
 悔しい、だなんて。
 悔しくて、言えやしない。
「なんなら、教えてやろうか?」
「えー、どーしよっかな〜教えてもらおっかなあ〜」
「くっだらねえ」
 反町が言い終わる前に、松山の方が大きな声をあげて椅子から立ち上がっていた。
「松山?」
 反町がきょとんとしながら、松山を見上げる。
 ただの冗談だと。
 分かっている。
 分かっているが、どうにもならない。
「…悪い、俺、用事があったんだ」
 松山は呆然とする二人を残したまま談話室を飛び出した。残された日向は、その背を追うように見つめながら眉を顰める。
「どうしたのかな?松山」
 ぽつりと呟いた反町に、さあなと短く答えた。
 彼が立ち去った理由も、声を荒げた理由も、もう、薄々わかっていた。
「…しょうがねえ奴」
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