片恋・後

 信じられない馬鹿をした。
 夜も更けた暗い路を歩きながら、松山は低く呻く。
 勢いに任せて宿舎を飛び出してきてしまったが、今になって冷静に思えば自分の行動は挙動不審にも程があった。
 反町だって不思議に思っただろうし、日向だって何かを感じ取ったかもしれない。せっかく今まで隠してきたのというのに、これでは意味がない。
 でも、居ても立っても居られなかった。
 冗談だとわかっている。それでもあんな言葉を投げられた反町が、羨ましくて、妬ましくて。
 何やってんだろうなと、松山はもう一度呻く。
 これからも友人としての関係を続けていきたいのなら、自分は想いを告げる事など許されない。喧嘩ばかりだが、築いてきた互いの信頼度は誰にも負けない自信があった。今更、壊したくないと思っていた。
 だったら、この想いを伝えてはならないし、悟られるわけにもいかない。
 それなのに、想いだけが先走って膨れていく。
「好きだ」
 ぽつりと。
 誰もいない暗い路面に松山は小さく零した。
「好きなんだ」
 もう一度、ぽつりと、呟く。
 言葉にすれば楽になるかと思ったのに、楽になるどころか心が軋む。視界がじんわりと滲んで、自分の双眸から雫が零れ落ちそうな事に松山は気付いた。唇を噛み締め、込み上げてくる嗚咽を必死に飲み込む。
 喉が詰まりそうになって、胸が苦しい。もう好きだと口にする事は出来やしない。
「おい、松山!」
 背後から大声で呼びかけられて、ビクリと松山は大袈裟に肩を震わせた。
 その低く良く通る声が、大好きだった。
 溢れ出しそうな涙と嗚咽をまた堪える。
「松山!お前、何やってんだ!待て!」
 背中に呼び声がかかるが、松山はそのまま走りだした。逃げても無意味だとわかっているのだが、踏み出した足は止まらない。
「おい!待て!」
 追いかけてくる日向の気配に、松山はただ必死で走った。
 だって、どんな顔をして会えばいい?
 好きで、好きで、どうしようもなくて。今だって涙が零れそうなのに。
「おい!」
 不意に背後から伸びてきた手に腕を掴まれて、松山はよろめきながらその足を止めた。ようやく止まった身体を、日向が背後から肩を抱くようにして支える。
 触れた広い掌が、じんわりと熱い。
「ったく、やっと追いついた。お前、何をよろよろ走ってんだ」
 息を切らせた荒い呼吸が松山の後ろで響く。
 近すぎる距離も、気持ちを押し殺せない自分も、何もかもがぐちゃぐちゃで、松山は俯いた。
「どうした?」
「いいだろ、別に」
「いいわけあるか」
 呆れたような声音に含まれた男の優しさに、松山は首を横に振る。
 だって、口を開けば好きだと言ってしまいそうで。
 それが今は何よりも恐ろしかった。
「頼むから、ほっといてくれ」
「ほっとけねえだろ、こんなお前」
 松山はぐっと拳を握って、静かに吐息を吐き出す。落ち着け、と何度も心の中で唱えて、ようやく息苦しい動悸が静まってきた。
 その刹那。
「口の中で茎を結べなかったのが、そんなに悔しかったのか?」
「違っ」
 茶化すような声に、怒りにまかせて振り向いた松山の身体を、日向は待ち構えていたように抱きとめる。ぽんぽんと、あやすように背中を叩いた。
「…しょうがねえ奴だな」
 手慣れた手付きで背中を擦る。きっと幼い弟妹をこんな風にあやしていたのかもしれない。そんな彼の優しさに触れて、一度は引っ込んだはずの涙が再びこみ上げてくる。
「…んな事で泣くなよ、何か…調子狂うじゃねえか」
 泣くまいと、必死に嗚咽を堪える松山の髪を、日向の手が戸惑ったように、困ったように撫でる。
 自分の為にこの不遜な男が調子を狂わせてくれるなら、このまま泣いてしまうのもいいかもしれないと思った。
 卑怯で、浅ましい考え方。
 そうと分かっていても、松山は日向という男が好きだった。
「…なあ、泣くなって。俺が悪かったから」
 違うんだと、松山は泣き笑いの表情で首を横に振る。
 浅ましくて、浅はかで。
 息苦しくて、どこまでも意地汚い。
 恋とはこんなにも苦しいものなのだろうか。
 だったら、恋なんてしたくもなかった。
「……なあ、キスってさ…」
 馬鹿なことを言おうとしている自覚はあった。だが、これで終わりに出来るならこの片恋にピリオドを打とうと思った。
「何だ?」
「キスって、どうやってするんだ?」
 いきなりの松山の問いに、男は目を丸くして松山を見つめた。
「なんだ、いきなり」
「お前、上手いんだろう?」
「まあ、下手じゃないとは思うが…」
「してくれって言ったら、どうする…?」
 日向は呆然と松山を見つめていたが、不意に小さく口元を綻ばせる。それは、困ったように目尻を下げた穏やかな笑みだった。
「やっぱりお前、茎を結べなかったのが悔しいんだろう」
 そういうことにして、彼がキスしてくれるなら、それで構わないとさえ思えた。
 どこまでも汚い。
 だが、これで諦められるなら、なりふり構ってはいられなかった。
 どれだけ望んでも、お前は手に入らないと知っているから。
 一度きりのキスですべてを忘れる努力をしなければならない。
「…ごめん」
 くしゃりと、不意に大きな手で髪を撫でられて松山の心臓は高く跳ねた。
 ああ、と。
 松山は俯いたまま首を横に振る。
 彼はとっくに気付いていたのだ。
 愚かで、哀れで、浅はかな感情に、彼はとうに気付いていて、それでも真実を告げない松山の気持ちを考慮して、核心には触れずにいてくれている。
 なんて残酷な優しさだろうか。
「ごめんな…」
 小さく喉を鳴らした松山は日向にあやすように背中を撫でられながら、拳を握りしめ、首を振った。
 もう、謝ってなんか欲しくなかった。だって日向が悪いわけではないんだから。彼を好きになってしまった自分が悪いんだから。
 だから、日向にそんな顔をして欲しくないのに。
「ほら…顔上げろ」
 優しい掌が松山の頬をぎこちなく撫でる。釣られるように松山はゆっくりと顔をあげて、困り顔でこちらを見据える男の双眸を見つめた。
 夜に紛れた低い声で、男はそっと呟く。
「なあ目を…閉じてくれ」
 どこまでも優しい男はそう言って、雫を称えた松山の瞳を掌でふさいだ。松山の腰を空いている方の手でやわく抱き寄せる。
 ごめんなと。
 吐息の触れあう距離で囁いたあと、男の唇が松山のそれに触れた。
 下唇を戯れに銜え、僅かに角度を変えて、今度は強く押しあてられる。
「っ…」
 最初で最後だと、分かっている。
 その温もりを自分から求めることは許されないから。
 でも。
 優しく唇を愛撫していく男の熱に。
 こんなに苦しいくらい好きなのだと今更になって知った。
 こんなに狂おしいくらい求めていたのだと今更になって気付いた。
 だが、それも、もう。
 ゆっくりと離れていった唇と共に、自分で終わりを告げなければならない。
「……十数えるまで、目を開けるなよ」
 その間にきっと彼は立ち去る気なのだと、松山は思った。宿舎に戻れば、何もなかったようにお互いが振る舞えるように、きっと自分が一人で泣けるようにと、日向はこんな手段に出たのだろう。
 自分の双眸を隠す男の掌が、このまま離れなければいい。
 今だけ。
 今だけ。
 このままがずっと続けばいいのに。
 ふわりと、男の掌が離れていって、頬に残っていた日向の温もりが消えていった。


 好きになったのはいつだった?
 気付いたのはいつだった?
 好きだ、などと言えやしない。
 好きだけど。
 好きだから好きになってくれ、なんて言えるはずもない。
 苦しい。
 傍にいたくて、こんなにも苦しい。


 松山は十を数え終えたあと、ゆっくりと瞳を開けた。
 誰もいない夜の路に、松山は思わずへたり込んだ。どっと堰を切ったように涙が溢れて、流れて、太腿を濡らしていく。
 知らなかった。
 こんなに。
 涙が止まらなくなるほどに。
 彼を愛していたなんて知らなかった。
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