「三杉」
 後ろからするりと腕を回され、耳元で囁くように呼ばれる。
 徐々に込められる力と、預けられる体重。そして、その密着度がもたらす温もりに頬が緩みかけたところで、慌てて三杉は我に返る。
「…邪魔だよ」
 はあと深い溜息を零して、手でべったりと張り付いたままの反町を振り払う。
 それもそのはず。反町は甘えたいというよりも、悪戯心で抱き付いてきたのだから。その証拠に、邪険に振り払われた途端に反町の表情と態度が一変した。
「…つまんない」
「じゃあ寝てればいいじゃないか」
「やだ」
「……なら大人しくしていて」
「やだー」
 後ろで拗ねたように寝転んだ駄々っ子を横目で眺め、すぐに手元へと目線を戻す。
 まとめるべき資料自体はあと半分ほどだが、既に深夜と言える時間だ。これは明日は相当辛そうだと三杉は溜息を吐いた。
「溜息する度に幸せが逃げるんだよー」
「吐かせてる本人が言うんじゃない」
 耳聡く聞き付け、それを即座に揶揄する材料にする。
 本当に嫌なところで頭の回る子だと三杉は思う。
「大体ね、今度対戦する相手の家に推し掛けて来ているだけでも問題なんだよ、本当は」
「だからこうして邪魔にならないよう大人しくしてるじゃんか」
「一度、君とは『大人しい』という言葉の意味とその定義について語り明かさないといけないようだね」
 というか、さっき大人しくするのは嫌だと自分で宣言したばかりだろうと口の中だけで呟く。
「……ベッドの上で?」
 反町が挑発的な笑みを浮かべ腕を絡ませてきた。そういう関係になってからこんな風にからかうことを覚えてしまったらしく、三杉は頭を抱え、また溜息を漏らした。
「これが終わったら相手してあげるよ」
「……なんだかんだ言ったって三杉もヤりたい盛りなんだねー」
「嫌なことを呟くんじゃない!」
 腕を思い切り振り払うと、その勢いに引っ張られるようにして膝の上に倒れこんできた。そのまま起き上がろうともせず、猫のようにごろごろと膝の上で寛ぎ出す。
「ほら、邪魔だからどいて」
「それ、あとどのくらい?」
「誰かさんが邪魔しなければすぐ終わるんだけどねぇ」
「ふうん」
 自分から尋ねてきた癖に、まるで興味が無いような生返事をして起き上がる。
 駄々っ子を気取るのにも飽きたのか、それとも眠くなったのか。
「君も明日は学校だろう。ベッド使っていいから先に寝なさい」
 学校帰りに待ち伏せされ、家に上がりこまれたせいで制服も鞄も靴もある。教科書とか明日は平気なのだろうかと思ったが、流石にその辺りは自分でなんとかするだろう。
「スキあり!」
「うわっ!?」
 ぼんやりと動作を眺めていたら、振り返り様に肩に手を置き机に身を乗り出された。
 一瞬呆気に取られた隙に背後で机を漁るらしいガサガサとした物音が聞こえ、資料がバサバサと音を立てて床に落ちた。
 決定的な悪さはしないだろうが、資料を見られると大問題だ。なんせ彼の学校のものなのだから。別に反町を信用していない訳じゃないが、これに関してはそういう問題だけではないのも事実。この際、突き飛ばしてでも離れさせようと慌てた瞬間。
 跳ねるように後ずさり、密着していた身体が離れた。
「何を」
「あははっ、びっくりした?」
 ほら、と人差し指と親指で飴玉の包み紙を摘み突きつけるようにして見せてくる。それは、口寂しい時用にと舐めていたものだった。ガサガサとした音はどうやら袋に数個しか入っていない大玉を探していた音らしい。
 そのまま得意気に包み紙を破り飴玉を口に放り込む姿を見て、がくりと肩を落とす。
 どうしてこの短時間でこんなにも疲れるのだろう。
「……それあげるから、大人しくしていてくれないか」
 怒る気力を削がれた三杉は溜息とともにぽんぽんと頭をあやすように撫でた。すると、子供扱いするなと言わんばかりに振り払われた。
 …もう、ほっとこうか。
 胸の内だけで呟いて、三杉は資料に向き直った。


 あれから数分。
 納得したのか諦めたのか、反町は人の背中に全体重を預ける勢いで寄りかかっている以外は大人しくしている。
 がくん、と首が垂れたり目をこすっているらしいことが気配と物音で分かったが、三杉は敢えて振り返らず声をかけた。
「寝るならベッドにいきなさい。風邪引くよ」
 そう促したが返事はなく、返ってきたのは、かち、と微かに硬いものがぶつかり合うような音。
 音の発生源は背後で、そんな音を出せるのは一人しかいない。
 そういえば、さっき飴玉を口に含んだままだった事を思い出した。半分寝に入っている所為でちゃんと舐めていないのか。
 このまま寝てしまったら飴玉を飲み込んでしまうじゃないかとの考えが頭を掠めて。三杉は溜息を吐きながら、反町の身体が横になってしまわないように肩を支えつつ身体ごと振り返った。
 眠そうな顔でもごもごと口を動かしている姿に小さく笑い、指先で唇に触れる。
「口、開けて」
「ん〜……?」
「そのまま寝たら飲み込んで窒息する」
 三杉は肩を抱いたまま、下から覗き込むようにして唇を合わせた。半開きの口に舌をねじ込み顎を軽く掴んで口を開かせ、飴玉をこちらの口内に移動させる。
 不可抗力で絡み合う舌の動きに僅かに身体が震え、くぐもった声が耳に届くが気にしまいと心がけた。
 元のサイズより多少小さくなってはいるが、やはりまだ大きいままの飴玉を口に含む。これでよし、と口を離そうとしたら、反町がぐいと強く胸倉を掴み、もう一度しっかりと唇を合わせてきた。
 しまった、と気付いた頃にはもう遅い。
 積極的に舌を絡めてきたかと思うと、ぐいと床に引き倒されて。その勢いのまま首に腕を絡め、しっかりとしがみついてくる。
 口の中が甘ったるい。
「……っは、こら。君起きてるだろう!」
 誘う甘い香りに理性を総動員して、唇を無理矢理離して叱り付けた。だが反町は気にも止めず、首筋に吸い付いてきた。離れなさいと言っても聞く耳を持たず、片手は首に回したままで器用にシャツのボタンを外してくる。
 こんなことになるなら、正門前で会った時に追い返せばよかった。
「だって、テスト前だのテスト期間中だの試合前だのって言って一ヶ月も相手してくれなかったじゃんか」
「一ヶ月も我慢したんだからあと1日くらい我慢できるだろう」
 シャツに絡められた手を掴み、動きを止めさせて厳しい口調で言うと、ふうん、と目を眇める。
「その割には十分……」
 下半身に視線が注がれ、その無遠慮さから逃げるように彼に覆い被さる。
 自分の一部とはいえ、今に限ってはしっかりと反応している下半身が憎たらしい。
「ねえ、どうする?」
 くすくすと耳元で笑いながら、反町が袖を引く。
 据え膳だよ、と冗談めかして言われ、肺の中の空気が全部出たんじゃないかと思うほど三杉は深い溜息を吐いた。
 今日だけで何回目だろうか。
 反町が言ったように、溜息を吐く度に幸せを逃すのなら、今日この短時間で一体どれほど幸せを逃してしまったんだろうか。
 けれども。
 ゆっくりと身体を起こし、彼の顔や首筋に何度か唇を落とし、頬を撫で、滑るように胸元へと手のひらを移動させゆっくりと服に手をかけると、勝ったと言わんばかりに満足そうに微笑まれた。
 飴玉は何度か口付けるうちにあっさりと溶けてなくなってしまい、残ったのは甘ったるい香りだけ。
 どうやったって、この色香漂う香りには勝てそうにない。
 バラバラになって伏せられた資料が視界の端にちらりと映ったが、今は、こっちが先決だと見なかったことにした。

 どうせ、僕だって我慢の限界だったんだ。
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