抱きしめられる

 ふぁ、と大きな欠伸を一つして廊下を歩く。
 とにかく眠くて眠くて仕方ない。さっきも風呂場で寝てしまい、危うく溺死しかけたところだ。
 今にも閉じそうな瞼をこじ開けて、のろのろと自室と向かっていると、途中にある談話スペースで本を読んでいる若島津の姿を見つけた。普段なら適当にいじって遊ぶとこだが、今はそんな気にはならなかった。てゆーか、そんなことをする前にさっさと寝たい。出そうになった欠伸を噛み殺して足早に歩き、通り過ぎようとしたところで、反町、と背後から呼び声がかかった。
 はぁと小さい溜息を吐き、振り向いた。
「あれ、いたの?」
 初めて気付いたというような表情と態度を取る。けれども、若島津はこっちを見ないままで無言で手招きをして来た。
「何?眠いんだけど」
 首を傾げて少し非難めいた声を出しても、若島津は変わらずにこっちを見ないまま無言で手招きを繰り返すだけで。用があるならまず口で言えよ、と内心毒づきつつ素直に近くに歩み寄った。
「もう、なんだよ」
 ほら来てやったぞ、と言わんばかりに奴が腰掛けているソファの背もたれ部分のすぐ横に手を置き、身を乗り出して顔を覗き込んだ。
「若島津って…っ!?」
 ようやくこっちを見たと思ったら人の腕をぐいと引っ張ってきた。身を乗り出していたせいで、大した力ではなかったはずなのに、あっさりとソファの上に転げ落ちてしまった。
「危ないな、もう!」
 床に落ちなくてよかった、と頭の隅でどうでもいいことに安堵しつつ不満の声を上げた。けれど、こっちの言葉を聞いていなかったのかそれとも無視したのかわからないが、またもや無言で若島津は俺の身体に手を伸ばし、そのまま背中まで腕を回してきた。
 ゆっくりと込められる力と、肩に乗せられた額の熱と重さに、やっぱまたか、と気付かれないように溜息を吐いた。

 最近、若島津が変だ。
 普通に生活している中で、ふとした瞬間にこうして人のことを抱き締めてくる。
 それも、ただ、無言で。
 初めてされた時は、何が何だかわからなくて思い切り抵抗した。それはもう遠慮なく。けれどもあっさりと解放されて面食らっていると、そのまま何を言うでもなく立ち去ってしまって。その場に取り残された俺は、ただぽかんと間抜けな顔をしているだけしか出来なかった。
 二回目は、一回目のしばらく後だったと思う。二回目だけあって、初めての時よりは少しは冷静でいられた。どうかしたの、と尋ねたら、別に、と短く返された。何かあったのと聞いても同じ。せめて何か言ってくれたらな、と戸惑っていたところでようやく解放されて。やっぱり奴は無言で、目すら合わさずに立ち去ってしまった。
 あれから何度かこんな風にされているけど、抵抗したのは最初の一回だけだ。今のところ無害だし、人が来る気配がすれば向こうから離れる。
 男に抱きつかれてるんだから、もう少し嫌がったりするべきなのかとは思う。
 不快感が無いわけじゃない。止めて欲しいか否かと聞かれたら真っ先に止めろと言える。それに、嫌だと言えばきっとすぐに離してくれるんだろうと思う。だけど、それをしようという気には何故かならなかった。

 少し息を吐いて身を捩る。反射的に胸に置いてしまった手が、密着しようとする身体との間に挟まれて痛い。腕が当たってるんだからこいつも多少は痛いと思うんだけれど、若島津がまだ離れる気配は無い。手の位置を変えようと身動ぐ度に、奴の腕の力は増しているような気がする。
 その様子に何だかなぁと思った。
 抱き締められていると言うよりも、しがみ付かれていると言った方が正しいのかもしれない。小さな子供が、何か大切なものを傍に置いておきたくて引き止めたがっているような。
 そこまで考えて、小さく吹き出しそうになるのを堪えた。
 それじゃあまるで、こいつが俺のことを好きみたいじゃないか。
 ありえない答えに小さく笑い、溜息を吐く。
 今にも関節の痛みで悲鳴を上げそうな腕を無理矢理引き抜いて、ごつん、と少しだけ力を込めて、若島津の肩に頭を預けた。
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