抱きしめる

 ぺた、という小さな足音が響く。真っ直ぐに向かってくる音に本を閉じた。
 足音の主が誰だかわかった時点で同じページを眺めていただけで、内容は少しも頭に入っていない。
「反町」
 声もかけずに通り過ぎた相手に声をかけると、足を止め、振り向く気配がした。
「あれ、いたの?」
 声をかけられて初めて俺に気が付いた、と言わんばかりのその態度に小さく苦笑する。俺がいることに気付いて、早足で通り過ぎようとしたくせに。
 あえて声には出さず、反町の方も見ずに手招きだけする。
「何?眠いんだけど」
 少し苛立った、けれども眠そうな声音に何も答えずもう一度手招きをすれば、一瞬の間の後に分かりやすく足音を荒立たせて俺の背後に来た。
「もう、なんだよ」
 急に声が近付いた。
 こいつの癖なのかは知らないけれど、話している相手が自分の方を見ていないときにその相手の顔を覗き込もうとすることがある。多分今回もそうなんだろうと横を向くと、ソファの背に手をかけてこちらの様子を伺う、想像通りの姿があった。そんな風に背もたれに手を置いて体重をかけるといつか転がり落ちると以前注意したのだが、おそらくこいつは覚えてはいないだろう。
「若島津って…っ!?」
 焦れた様に名を繰り返す奴の腕を無理矢理こちらへ引っ張った。床に落ちないようにと転げ落ちた身体を支えてから手を離す。
「危ないな、もう!」
 勢い良く顔を上げて文句を言うのを無視して、もう一度身体に手を伸ばした。一瞬奴の身体が強張った気がしたが、気にせずに力を込めて抱き締める。首筋に顔を埋める様にして額を肩に乗せる頃には、反町も半ば諦めたかのように力を抜いて、ただされるがままになっていた。


 もう、どれくらい前になるだろう。
 初めてこうした時は、暴れるような勢いで抵抗されたのをよく覚えている。同性に抱き付かれているんだから、思考が正常な人間なら当然だとそう理解はしていた。
 …つもりだった。
 予測していた通りの反応だった筈なのに、いざされてみるとどうにも辛かった。
 離せと言われるままに手を離して何も言わずに部屋へと逃げ込んで、その後は部屋から一歩も出ずじまいで。夜になってもその出来事ばかりが思い起こされ、一睡も出来なかった。
 次の日になっても気は晴れず、顔を合わせるのが嫌だった。呆れているだろうか、それとも軽蔑されているだろうかとそんなことばかりが頭を過ぎった。一日中部屋に籠っていたかったがそんなことは出来るはずもなく。何もかもを引き摺るような足取りで食堂へ向かえば、奴の姿はどこにもなかった。
 避けられている、と思った。それ自体は辛いが、自分の責任なので仕方がない。それに合わす顔もなかったので少し安堵していたら、急に背後から声をかけられた。
「おはよ」
 特に感情も込められていないような言葉の後に、ぽんと肩を叩かれる。驚いて、ばっと勢い良く振り返ると反町と目が合った。
「…なんだよ、その顔」
 少し間を置いた後で破顔して、鳩が豆鉄砲でも食らったみたいな顔して、と付け加えた。
 嫌になるほどいつも通りな態度をとる奴を見て、気にしていないのか、とそのまま俺の脇を通り過ぎてテーブルに付く後姿を、呆然と眺めていた。
 2度目は、それから2週間後。
 部室でぼうっとしている姿を見かけて、手が震えそうになるのをなんとか堪えながら抱き締めた。また嫌がられると思っていたのに、その日は腕を持ち上げることすらしなかった。
「…どうかしたの?」
 代わりに気遣うような声音で問うてきた。心配されてるんだとわかったのだけど、それでもその時の俺には別に、と掠れた声で返すことしか出来なくて。何かあったの、と続けて問われたが何も答えられなかった。
 そんなこと、聞かれても素直に言える訳がない。
 俺だってこの感情の全てを認めて開き直れたわけじゃないんだ。
 認めたくないとすら思っているのに。
 暫くしてから腕の力を緩めると、あからさまに安堵した様子だった。また何かを聞かれる前に部室から立ち去る。一人残されたあいつはどういう心境なんだろうと考えたが、想像するのは止めた。
 どうにも嫌な方向へしか思考が働かなかったから。


 腕の中で反町がもぞもぞと見動ぐ。離すかと言わんばかりに腕の力を込める。
 強く抱き締めようとすればするほど、密着する身体の間に置かれた反町の腕が胸や腹にあたり痛い。
 意識的に置いたいるのか、それとも無意識のうちにそうしているのかはわからないが、拒むようなそれが、ただ酷く邪魔に感じる。
 いっそ、初めてこうした時の様に思い切り抵抗してくれればいい。
 力の限りに暴れて、引き離して、鬱陶しいとでも言えば止めるのに。
 そうすれば、自分に言い聞かせて諦める事が出来るのに。

 小さく溜息を吐かれて、身体の間から腕が引き抜かれた。さすがにもう突き放されるかと思い、無理矢理覚悟を決めようと息を呑む。腕の力を緩めようとした瞬間、肩にごつ、と何かが乗せられた。
 それが反町の頭だと気付いて、俺は緩めようとした筈の腕の力を更に強めた。徐々に預けられる体重を受け止める。
 それだけのことなのに、自分の鼓動が酷くうるさく耳に響いた。
 ふと、引き抜いたそのままで所在無さ気にだらりと垂らされている奴の腕に目をやる。
 どうせその手に行くあてがないのなら、俺の背中にでも回してくれればいいのに。


「若島津」
 静かな廊下に、心なしか上擦った声が響く。
 何だよ、と平静を装って答えようとしたものの、耳元で囁く様にして発せられた声に動揺し何も言えない。
 返事が無いのもいつものことだと決め込んでいるのか、反町は構わず言葉を続ける。
「俺、もう眠い」
 だから離せとでも言うのだろうか。
「後は、好きにして」
 ふあ、と欠伸をして、もう一度俺の肩に頭を置く。
 そのままずるずると弛緩していく身体を呆然と抱きながら、悟られないようにと内心に押し留めるように狼狽し。
 そして眩暈がした。

 何を言っているんだこいつは。
 この状況で寝る奴なんてありえないだろう、普通。
 万が一とか考えないのか。
 もしもこのまま何かしようとしたらどうするんだ。
 お前をどうにかしたいとか思ってるんだぞ、俺は。
 なんで、そんなに。

 ぐるぐると回るような思考の渦の中で、信頼されているのだ、と。
 途方も無いような答えに気付いて、胸が酷く痛んだ。
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