ある日の攻防

「反町」
 男が反町の好きな、直接腰に響くような声で名前を呼んだ。
 眠る前にこの男は時折こうやって、反町を誘う。
「…俺、眠い」
 こうやって、その誘いをやんわりと断るのは常。だが、いつも反町の分が悪い。
 これもそれも全部、男の自分でさえドキリとするような甘くかすれた声だったり、胸元を這いまわるひやりとした指先だったり、わざといやらしく絡めてくる足だったりと、敗因要素は尽きる事がない。
 しかし、今夜は断固として拒絶しなければならないのだ。
 いくらくすぐるように首に吸い付いてこようが、優しく髪を梳こうが、黒い瞳を髪の隙間から覗かせようが。
 でも、それに打ち勝つにはかなりの気概がいるわけで。
 だったら、目をつぶって、さっさと寝てしまえばいいのだ。だが、それを見越したうえで、その魅惑的な声で揺さぶりかけるものだから本当にこの男はタチが悪い。
「…今日はヤダ」
 結局は、もうすでに流されかけていると一発で分かるような声の弱さで答えてしまう。
「いつもヤダって言うわりには、最後は自分から欲し…」
「それ以上言うなっ」
 反町は全てを言い終わる前に掌で男の口を塞いでやった。次に何の言葉が続くかはわかっているからこその阻止であった。だが、それが分かってしまう時点でこの男の嫌がらせは功を成しているといえるのだろう。
 ああ、そうだとも。本気で嫌なわけがない。
 ベッド上での男の優しさと巧みさを嫌という程知っている。
 むうっと悔しがる反町を余所に、男は掌をねっとりと舐めあげた。
「ひゃっ」
 気持ち悪いのか、卑猥に感じるのか、どっちつかずの感触にとっさに手を引っ込めた。
 そのスキに少し体を起こしていた男に軽く口付けられる。啄ばむ様なキスが何度も反町の唇を掠めて、可愛らしく音をたてる。だから、うっかり口を開いてしまいそうになったところで、ハッと我に返った。
「今日はヤなんだよっ」
「何でヤなんだよ」
 男が再度の拒絶に眉を顰めた。
「…口内炎」
「はぁ?」
 思いっきり馬鹿にしたような顔で男が見下ろす。
「口内炎、出来てんの。痛いから今日はヤダ」
 思い出した途端に疼き出したジクジクとする痛みに、反町は新たに決意を硬くする。
「何でんなもんが出来んだよ」
「…仕方ないじゃん。出来ちゃったんだから」
「ビタミン不足。要は偏食だな」
「う、うるさいよっ」
 不機嫌を露わに反町は唇を尖らせ、ふいと顔を背ける。その仕種がどれだけ上に覆いかぶさる男をその気にさせるか知りもしないで。
「そういうことなら…、そこを刺激しなけりゃいいだけの話だ」
 男は瞳を細め、ふっと唇の端を吊り上げる。
「そういう問題じゃないだろっ」
 その善人とは思えない類の笑みに、身の危険を感じた反町は拒絶しなければと思ったところで、男が熱にうかされたように囁いた。
「じゃあ、ようするに、お前はキスをしないセックスはしたくないってことなんだな?」
「…べ、別にそーゆーワケじゃ…」
 断定口調で問いかける男に弱々しくも反町は反論した。
 ヤバい、これはヤバい、と反町は思う。普段無口なくせに、こういう時だけ饒舌になるこの男が恨めしい。
「だったら、問題はないだろ」
「若っ…!」
 にやり、と。
 魅力的な低音で囁いた男は反町の前髪を梳くようにかきあげた。
 本格的に覆いかぶさってきた男に今日も完敗してしまった反町は、くそぉと思いつつ力を抜いた。
 所詮、本気になった男にベッド上での勝負は、最初から反町の分が悪いのだ。
 口内炎を刺激しないように情熱的に与えられる口付けに、心地よく、しかし悔しく思いながら、反町は白旗を掲げた。
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