これが、恋・前

 もう、気付いてたのに。
 それでも、俺は知らないふりをする。


 窓から西日が差し込む。ゆるゆるとした陽を一身に浴びながら、佐野は溜息を零すと視線を手元に落とした。
 バッグを逆さにして荷物を床にぶちまけたみたり。自分がばらまいた荷物をかき集めると、今度は丁寧に畳み直してバッグに詰めてみたり。
 さっきから同じ事を繰り返してる自分が少しバカらしいと思うのだけど、何か作業をしてないと気持ちが落ち着かない。
 静かな部屋に響く、小さな、健やかな寝息。
 そんなもので心を乱されるのだから、かなりの重症だと、佐野は思う。気になるなら部屋を出ればいいのだけれど、そんな気分にもならなくて。
 何度目かわからない溜息を洩らすと佐野はもう一度荷物をぶちまけた。


「…んっ」
 手に持っていた荷物を大きなバッグの中に押し込み、部屋の隅っこで荷物を改めていた佐野は耳に馴染んだその声に顔を上げた。
「さの〜、今、何時?」
 ベッドの上でまだ眠そうに大欠伸をする新田に笑顔を向ける。
「もう、夕飯前」
 練習が終わったのは小一時間程前。合宿初日の為、練習は流し程度だったのだが“黄金世代”と呼ばれる彼らの練習が“流し程度”で済むはずもなく。すっかりペースを狂わしてしまった新田は与えられた部屋に戻るなり、寝入ってしまった。
 新田が寝ていた間、宿舎内は静まり返っていたので、きっと他の連中も思い思いに体を休めていたのだろう。
 新田は軽やかにベッドから降りると、佐野の傍へ歩み寄った。
「もうそんな時間かよ、じゃあ食いに行こうぜ」
 座り込んだままの佐野を笑顔で誘う。
 まばゆい陽光に照らされた、その柔らかい笑顔に。
 一瞬、佐野の心臓がとくん、と跳ねた。
 新田の笑顔に息が苦しくなる。
 この感情の正体を佐野はもう薄々気付いていたが、それでも知らないふりをしているのは、ひとえに新田を困らせたくないから。それなのに一度見てしまったなら、その笑顔からはなかなか目が離せないのだから、この感情は性質が悪いと佐野は思う。
「な、なんだよ」
 ただ無心に。
 まるで何かに囚われたかのように。
 新田を見つめていることに気付いていても、目を反らすことなど出来やしなくて。
「佐野?」
 不思議そうに問われ、はっとしたように佐野の瞳が揺れ動く。
「大丈夫か?」
 重ねて問われた言葉に、佐野は苦微笑を浮かべて頷いた。
「悪い。ぼうっとした」
 見とれてた。そう素直に言えない関係が歯痒い。
 だが新田は佐野の声に困惑を感じ取ったのか、眉を顰めて佐野の隣にしゃがみ込む。
「大丈夫か?具合、悪いのか?」
「そんなことないよ」
 心配そうに髪を撫でた手をやんわりと払うと、佐野はゆっくりと立ち上がった。
 そんな些細な接触で心臓が跳ね上がるのだから、どうしようもない。
「なんて顔してんだよ、俺は大丈夫だよ」
 そう言って笑っても、新田は納得できないと言いたげに唇を尖らせた。
「本当に?なんなら医務室に連れてってやろうか?」
「本当に何でもないんだ。ただ…」
 佐野は、そこで口を噤んだ。
 ただ。
 その先を自分は何と言おうとした?
 見惚れていた、とでも言う気だった?
 何故、と問われたら困るのは自分だというのに。
「ただ?」
 聞き返された言葉に何も言えずに、佐野は苦笑して首を振った。
「何でもないってば。ほら、早く行こ」
 口から出たのは、不自然すぎる言い逃れ。らしくないと内心で呟きながらドアの方へ向けば、不意に背後から腕を掴まれた。
「ちょっと待てよ!」
 呼びとめてきた必死な声に佐野は振り返る。
「何?」
「何、じゃねぇだろ、具合悪いなら無理すんなって!」
「だから、そんなんじゃないってば」
 少し困ったような表情を浮かべて佐野は新田の腕をやんわりと解く。
 だって、何と言えばいい?
 お前の笑顔に見惚れていて、ぼうっとしていたんだと。
 お前が好きだから、その笑顔に見惚れていたんだと。
 言えない。
 そんなこと、言えるわけがないじゃないか。
 思わず項垂れて小さく溜息を吐けば、新田が一歩で佐野との距離を縮めた。その行動に佐野が見上げれば、覗き込むように新田が顔を佐野の顔の間近に寄せる。
 その距離の近さに、ぎくりと佐野の身体が強張る。
 目の前でさらさらと流れる髪の一房や、長い睫毛の一本一本までもがくっきりと視界に飛び込んできて。思わず湧き上がってきた衝動に佐野は拳を握り締め、必死に堪えた。
「…佐野、なんか変」
 不意に新田が拗ねたような口調で小さく呟いた。その様子に、佐野は微笑みながら首を振る。
「大丈夫だって。新田は心配症だな」
「心配して何が悪いんだよ!」
 即座に返された怒気交じりの声に、佐野は虚をつかれたような顔で押し黙った。新田はそんな佐野の腕を掴むと、一気にまくし立てる。
「ぼーっとして具合悪そうなら、誰だって心配するだろ!」
 新田の剣幕に押されるように、佐野がじりじりと後退する。だか、新田の勢いは止まらない。
「お前、いつもそうだ!黙ったまんまで!無理ばっかしてさ!」
「ちょ、ちょっと、新田」
「たまには俺を頼れよ!」
「新田…」
「…そりゃあ、お前んとこの先輩と比べたら頼りねえかも知れねえけど…」
 泣き出しそうな、不安げな表情。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「違う、違うんだ」
「同室なんだし、具合悪い時ぐらい頼れよ!」
「違、違うんだって、…ぅわ…っ!」
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