これが、恋・後

 刹那、がくんと佐野の身体が後ろに傾いだ。ベッドの縁に膝裏を引っかけて重心を崩した佐野が伸びてきた新田の腕を掴み、何とか身体を支えようとする。が、バランスを取るために振り上げた佐野の足先が、運悪く新田の軸足に絡んだ。
「わっ…!」
 これが決定打になった。
 完全に支点を失った二人の身体は傾き、もつれるようにベッドに倒れ込んだ。
「いってぇ…」
 倒れ込んできた身体を胸の上で受け止めた佐野が、小さく呻く。
「いてぇ…、大丈夫か?佐野」
「もう!何すんだよ!」
「何すんだよって…、お前が俺を巻き込んだからだろ!」
「変にお前が迫ってくるから、こんな事になったんじゃねえか!」
 ベッドの上で身体を密着させたままでの、いつもの言い争い。でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「重い。新田、降りろよ」
 この状況が少し名残惜しかったが、佐野はその肩を柔らかく押した。だが新田は佐野の上に乗っかったまま、微動だにしない。
「…嫌だ」
「新田?」
「…退かねえ」
 その言葉に佐野が目を丸くする。
「な、何言ってんだよ!降りろよ!」
「…だってまだ、聞いてない」
「何がだよ!」
「『ただ』のその先…お前、何を言おうとしたんだ?」
 囁くように告げられた言葉に、佐野の心臓が強く跳ねた。
「…何も、何もないってば」
 優しく問う声を拒絶したのは、佐野の精一杯の去勢。自らの鼓動の早さを悟られない為の、必死な去勢。
 佐野の態度に新田が不愉快そうに眉を顰めた。
「嘘だ、言え」
「何でもないって!」
「言え!」
「嫌だ!」
 不毛なやり取りの中で、不意に新田がにやりと笑った。
 悪戯を思いついたような、そんな不敵な笑み。
「あっそ。じゃあ……キスするぞ」
 佐野がぎょっとしたように瞳を見開く。
「…冗談」
「本気。言わねえと、キスするぞ」
 にやりと。
 笑いながらの新田の言葉に佐野の心臓が更に鼓動を早める。ばくばくと、鳴り響く心臓がうっとおしい。
 心臓、うるさい!いっその事、止まれ!
 そう内心で罵ってみたものの、すぐに鼓動が治まるはずもなく。
 押し黙ったままの佐野に業を煮やしたのか、新田は頬に手を添えた。
「キス、するぞ」
 新田の親指で佐野の唇をなぞる。溶けるように囁いて、射抜くように佐野の揺れ惑う瞳だけを見つめながら。
 だが、そう言う新田の心臓もまた、佐野と同じように鼓動を刻んでいるのが伝わってきて。佐野は仄かに期待する気持ちを抑えきれなかった。
 もしかしたら。
 もしかしたら新田も、自分と同じ気持ちなんだろうかと。
 だが、そんな事はないと、必死に逸る想いを抑えつけようとするが、頭をもたげた期待はなかなか去ってくれない。
 早く、早く『嫌だ』と言わないと…。
「…勝手にしろよ」
 抵抗しようとした佐野の口から飛び出したのは、肯定ともとれる言葉で。
 もう、新田を想う気持ちを知らないふりなんか、出来ない。
 だって、ずっとこうしたかったんだから。こうして欲しかったんだから。
「じゃあ、そうする」
 短く告げて、新田が距離を縮める。
 額が重なって、佐野が瞼を下ろす。
 睫毛が触れて、身体が期待と緊張で震える。
 吐息が唇にかかる。
 もう、唇と唇との距離は1pもない。
 重なる寸前、唐突に部屋の扉が開いた。
「あーッ!新田が佐野を襲ってるーッ!」
 入口付近から響いてきた素っ頓狂な声に、新田は佐野の胸の上に手を突いて、勢いよく跳ね起きた。ぐっと抑えつけられた衝撃に佐野は小さく噎せる。
「違っ!これは事故で、たまたま転んだだけで…」
「健ちゃん!俺、言いふらしてくる!」
「ちょっ!反町さん!違う!違うんですって!ちょっ、待て!言いふらすなっ、言いふらすんじゃねええっ!」
 光景を目にするな否や、部屋を飛び出した反町の後を追って新田が慌てて飛び出してしまった。
 それをベッドから見送り、佐野は戸口に残された若島津を気まずそうに見遣った。普段から無表情と言われるこの眉目秀麗な男も、呆気にとられたように、そしてどこか気まずそうに立ち尽くしていた。
「あー、佐野」
「…はい」
「俺…何も見てないからな」
 踵を返しながら、噎せて涙目になった佐野に短く告げた。
「…そんな気遣い、いらないってば」
 思わず零した声が、独り残された部屋にむなしく響いて。
 佐野は小さく溜息を洩らした。


 それでも唇を重ねなくて良かったと思うのは。
 それだけで済まない事がわかっていたから。
 一度、重ねてしまえば、最後。
 押し籠めてた気持が溢れ出して、新田を覆い尽くしてしまうのが。
 それが、わかるから。
 だから、気付いてはいけない。
 固く固く鍵を閉めて。
 俺は知らないふりをする。


 それでも抑えきれない感情。
 これがきっと恋というもの。
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