恋、なんかじゃない・1

『恋』とは。
 いつも会いたい、一緒にいたい、自分のものにしたいと思う気持ちのこと。


 冷えた空気がまどろむ。
 その淀んだ空気の中で新田はそっと溜息を漏らした。
 静かすぎて、なんだか息が詰まりそう。
 だが、ソファに深く凭れた彼の身体と、縁に投げ出された彼の無気力な腕に動く気配はない。
 宿舎の階段脇にある自販機コーナー。そこのちょっとしたスペースにソファが置かれている。いつもなら談話室と負けるとも劣らないほど騒がしいはずのそこは、奇妙なほど静まり返っていた。まだ寝るには早い時間帯だというのに、厳しい練習のせいか、皆寝てしまってるらしい。人気がないという事はきっとそういう事なのだろうと、新田は思う。だから、いつになく自堕落な様子で誰にも咎められる事なくこの場所を占拠できている訳だけれども。
 でも、だ。
 誰かが通り掛かってくれたら気も紛れるんだけどなあ。
 別に話し相手が欲しくて、ここに居る訳ではない。でも、静か過ぎるのもかえって落ち着かない。じゃあ、自分の部屋に戻ればいいのだが、それは出来ない。だから、結局は落ち着かなくとも、そこは目を瞑ってここに居るしかなくて。
 最近、何だか自分が変だ、という自覚はあった。妙に落ち着かなくて、そわそわして。気が付いたら、いつも特定の人物を目で追っていて。
 そんな自分に嫌気がさして、こうして妙なそわそわとやらを逃がす為にこの場所にいるのに。こうも静かであれば、治まるどころかそわそわは悪化していくばかり。だが、自室にいるよりは幾らかマシなのだ。自室に戻れば、その特定の人物がいるのだから。
 どーしちゃったんだろーね、俺…。
 新田がこんな状態になったのは、つい先日の出来事からだ。
 キスするぞ。
 あの時の、その言葉はただの悪戯のつもりだった。口を割ろうとしない佐野に焦れて、口にしただけで。キスをするつもりなんかサラサラなかった。それなのに、身体は矛盾してキスしようとした。その後、間一髪のところで反町が入ってきて、ただの事故だとうやむやに誤魔化したけれども。
 どうしてキスしようとしたのだろう。
 唇に触れる。それはすなわち佐野の唇に触れるという事だと理解はしていたのに。
 そう、あれから何かがおかしくなった。
 あれからそわそわして、落ち着かなくて。そばに居たら、余計にそわそわして。そわそわから逃げたくて、佐野を避けるような事までしてるのに、一向になくなってくれない。
 このそわそわは何だろう。このそわそわを生み出す気持ちは、一体どこから湧いてくるのだろう。
 はあと重い溜息を吐いた刹那、ふ、と前の光景が浮かんできた。
 赤く色付いた唇が触れそうな位置にあって。
 ふかふかでやーらかそうな唇だったよなぁ。
「……キスしてーなぁ」
 佐野に。
 …………………それは違うだろ、俺。
 ありえない事を考えた自分に動揺しつつも、とりあえず突っ込みを入れた。だから、その間に背後から忍び寄っていた気配に気付けなかった。
「そっかー、キスしたいのかー。キスしてやりたいのは山々なんだけど、お前にそんな気は起きないんだよねぇ」
「ぎゃあああ、違っ!誰でもいいわけじゃないからっ!アンタとは絶対したくないからっ!てゆーか何でアンタがここにいるんだよっ!」
 驚いてソファから半分落ちた身体を起こして、喚きながら振り向く。
「お前、そんなに嫌がらなくてもいーじゃん。それに、何でここにって、ここは一応公共の場所なんだよねぇ」
 随分とくつろいじゃってるみたいだけどと、天使のような笑みを浮かべながらのほほんと宣う反町は、新田には悪魔か何かのように見えた。
 言っちゃった。そう、言っちゃったのだ。頭の中だけで呟いたはずの言葉は、口からポロンと出てしまったのだ。一番厄介な人物の前で。一体どこからどこまで、出ちゃっていたのか。
「でも、こーキッパリハッキリ拒絶されるとその気が出てくるのは何でだろーねぇ。俺、上手いよ〜。腰砕けになっちゃうよ〜。せっかくだし経験してみる?経験してみよっか〜」
「いい、んな経験いらねーし」
「んー、遠慮しなくていーよ。ホラホラ」
「…ゴメンナサイ、マジで勘弁してください」
 肩に手を掛け、今にも迫ってきそうな先輩を引きはがす。ちょっと涙目になってしまったのは当然だろう、距離はほとんどなかったのだから。その先輩といえば、泣くほど嫌がらなくてもいーじゃんとか何とか言いながら身体を離すと、新田に背を向け、自販機にコインを入れた。どうやら飲み物を買いに来ただけらしい。だったらすぐに部屋に戻るだろうと思っていた新田の期待を裏切り、反町はソファの隅で固まる彼の横に腰を落ち着けた。
 一瞬、気まずい空気が辺りに立ち込める。どうしようと、寛いだ様子でプルタブを引く先輩を見遣ると、反町が笑ったように見えた。
「…で、何かあった?」
「はい?」
 その質問に、新田は咄嗟に反応出来なかった。
「…べ、別に。特にないッスよ」
「嘘」
 何にもないヤツがそんな憂鬱そうな顔しないよと言われて、新田は唸って小さく舌打ちをした。
 きっと何を言っても、この人は簡単に誤魔化されてくれないんだろうなと、新田は思う。そんなことは今までの付き合いでわかってた。それでもたまには誤魔化されてくれたっていいのに、と恨めしく思ったのだけれども。どうせ何を言っても通用しないならば、もういっそのこと開き直って、自称経験豊富な先輩に、この燻る感情の正体を聞いてしまうのも一つの手かもしれない。
「……最近、何かヘンなんスよね」
「頭が?」
「違げーよっ!」
 いちいち怒鳴らないのと、宥めつつ嬉々としながら先を促す反町に、新田は話す相手を間違えたかもしれないと、呆れに近い思いで、深々と溜息を吐いた。
「……実は、」
 ぽつぽつと話す新田の話の内容に、嬉々としていた反町の表情が少しずつ呆れたようになっていった。
「ないよなぁ」
 反町のそれは表情と寸分違わぬ声で。
「やっぱ、ないッスよねぇ」
 返ってきた言葉を受けて、新田の声も暗くなっていく。
「そーゆー意味じゃなくてだな、俺が言いたいのは今頃かよって事」
「は?」
「フツーはさぁ、自分で気付くもんだと思うんだけどねぇ」
「へ、どーゆー事ッスか…?」
 どこか怒りを孕んだ呆れ果てた反町の表情に、新田はびくつきながら問いを発すると、反町はとうとう大仰な溜息を吐いて、頭を掻きながら項垂れてしまった。新田は俯く先輩の背負う空気に、何かメチャクチャ怖いと思う。
「お前の話聞いてるとさぁ、」
 手元にあった視線を上げ、反町が口を開く。その目が怖い。
「俺には恋の病にしか思えないんだよね」
 反町の言葉が音波になって、新田の鼓膜を震わす。その振動が信号になり神経パルスに変換され、蝸牛神経を通して大脳の聴覚中枢に送られて、音の意味を理解して。
 そして、新田の頭が真っ白になった。
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