恋、なんかじゃない・3

 頭がパンクしそうだと思った。
 逃げたいと思った。
 でも、逃げてはいけない。逃げてはならない。
 きっと逃げ出したら、それはずっと続くであろう事は何となくだが分かってしまうのだから嫌になる。


 はあ、と新田は自分のベッドに腰掛けて、鬱々とした吐息を零した。
 そわそわの正体を突き止めようと無い頭をフル回転させて、自分なりに答えが出そうだったのに。
 喉が渇いて、胸が苦しい。おまけにありえないぐらい、ガチガチに緊張してる。
 たかが同じ空間にいるだけで何でこうも緊張せにゃならないんだ、と思うのだけど、緊張の解き方が分からないのだからどうしようもない。
 何、意識してんだよ、俺。
 でも今はそんな事を追究しても仕方ない。まずはそわそわの正体を探り当てようと、頭を切り替えようとするが、うまくいかない。緊張をほぐそうとすればするほど、ざわついていた気持ちが更にざわついて、身体が強張っていくのが分かる。
 やっぱ部屋に入るべきじゃなかったんだと、新田は思った。適当でも何でもいいから言い訳でもすればよかったんだ。タダでさえ妙なことを吹き込まれて、頭が一杯なのに。こんなヘンなもんまで背負いこんじまって。部屋に入りさえしなかったら、緊張も妙に意識することもなかったのに。
 これじゃまるで…。
 恋の病、じゃないか。でもそんなはずはない。だって恋なんかしてないし、佐野を好きになるはずがないんだから。
 もう何もかも放り投げて逃げたい、と新田は心底思った。
 自分を変にさせるそわそわからも、緊張させるこの空間からも、その原因である佐野からも。
 でもそんなことは出来ない事ぐらい、新田はきちんと理解している。だって、逃げ出せば楽になるのは一時だけで、それは解決される事なくずっと付きまとうのが分かるから。それが分かるから逃げ出しても意味がない。
 仕方ないが逃げ出したい気持ちを押し殺すしか、新田には選ぶ余地がないのだ。だから、せめてそれらをやり過ごそうと、頭を掻き毟りながら、新田は溜息よりも重い吐息を吐き出した。
 混沌とした頭では、きっと納得できる答えなど導き出さない。逃げる事が出来ないなら、考える事を放棄して、眠気などこれぽっちもないが寝てしまおうと思った。今まで、このそわそわに耐えてきたのだ。それに妙な緊張が加味されても、一日ぐらいは耐えれるはずだ。
 そう考えた、刹那。
「お前……どうした?」
 ふわり、と絡み付くような視線とともに、佐野が怪訝そうな声を投げて寄越した。ちらりと横目でその表情を見れば、なんだか困ったような瞳があった。
「何が?」
「気付いてねえの?」
「だから、何がだよ」
「顔…赤いぞ」
「は?」
 まるで意味が分からないと言いたげな新田をよそに、佐野は傍に歩き寄るとすっと新田の額に手を当てた。
 ヒンヤリとした掌の感触が気持ちいい。
「あー多分、熱あるな。コレ」
「はっ!?熱?」
 裏返って、素っ頓狂な声に佐野は呆れたようにかぶりを振って溜息を吐く。
「…自覚なしかよ」
 表情と寸分違わぬ呆れた声に、新田はむっとした表情を見せた。だって熱があるなんて、そんな感覚はまるでないし。佐野に指摘されてもまだ信じられなくて、新田は自分の額や首筋やら触ってみる。確かに熱っぽいような気がしたが、大事には至らないと即座に判断した。熱の原因に思い当たる点があったからだ。
「熱い…かな。でも大丈夫だろ」
「よかねえだろ。薬、貰ってきてやろうか?」
「大丈夫。熱がある、っていっても大したことないし」
 へらっと笑って、佐野の申し出を断る。これが風邪からくる熱なら薬が必要だろうが、この熱には薬は効かないだろう。
 だって、熱の原因は頭のオーバーヒート。ようは知恵熱。こんなので薬なんか飲んでられないし。
「一応、飲んでた方がいいって」
「だから大丈夫だって」
「新田!」
 強い口調で呼ばれて、仕方なく顔を向ける。そして、思わず目を見開いた。
「お前…なんて顔してんだ」
 口に出してしまうぐらい、それぐらい酷い顔だった。泣きだしそうで、不安で仕方ないという顔。
「そんなに俺の事、心配?」
「当たり前だろ」
 冗談めかした言葉に。
 即座になんのてらいもなく返された言葉に、新田は一瞬押し黙り、そして笑ってしまった。そう言った当の本人は、照れたように頬を染めて、黙って俯いてしまったのだから。
 長い前髪のすき間から見える、赤く色付いた目元が落ち着きなく泳いでいる。
 ちくしょう。
 新田は内心で唸った。
 かわいい、と。
 口が悪くて、可愛げがなくて、顔半分な前髪で隠れている小癪な奴だったのに。そんな奴の事をかわいいと思った心に嘘はなかった。
 そう思った時点で、あれだけ悩ませていた得体の知れない感情の正体が分かってしまった。
 仕方がない。
 認めたくはないが、あの自称経験豊富な先輩の診断は正しかったらしい。
「佐野」
「なんだよ」
「やっぱ、薬ちょうだい」
「バカ、それなら早く言えよ!じゃ、貰ってきてやるから」
 そうじゃない、と新田は溜息を吐く。
 熱があるのはお前のせいだ。
「薬なら、ここにある」
「えっ?」
 振り返った佐野の腕を掴んで引き寄せる。いきなり、こんなことをする気はなかったのだけど。こんな可愛い奴を目の前に放って置けるはずもなく。
「ちょっ、ちょっと…!」
「いーから」
 後頭部に回した手で顔を引き下ろし、その煩い口を塞ぐ。
 塞いだと言っても、ほんの一瞬だけだけど。
「な……なにする」
「何って…薬」
「バカかぁ!なんでキスが薬なんだよ!俺にまで風邪移ったらどーすんだよ!」
 首まで赤く染めながらどこか間の抜けた台詞に、新田は笑うしかない。
 所詮は知恵熱。キスなんかじゃ移らないのに。
 でも、移ってしまえばいい。
 移って、同じ病気になればいい。

「これからたまにはキスしていい?」
「は?なんでだよ」
「だから、薬だって」
「訳分かんねえよ!何の薬だよ!」


 だって、お前のせいだもん。
 お前のせいで、厄介な病気になったんだから。
 責任もって、お前が治せ。
 それぐらい、いいだろう?
 そしてお前も、恋の病になればいいんだ。
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