飼い犬と野良猫

「若島津って犬だよね」
 火照った身体を真っ白いシーツに包ませたまま、反町がぼそりと呟く。
 それは睦言というには余りにも微妙な話題で、若島津は隣で仰向けで寝そべっていた体勢を傾けて、反町に向き直る。
「なんでだ?」
 不思議そうに問う若島津に、枕に頬を埋めるようにして俯せに寝転がる反町は、気怠げにたゆたう視線を若島津に戻すことなく微笑う。
「ご主人様の言うことなら何でも聞くし、それ以外の人には懐かないもん」
 それは幼馴染と若島津の関係を揶揄しているのだとすぐに分かった。片眉を上げ静かに抗議する若島津を余所に、反町はくすくすと笑いながら続ける。
「撫でようと擦り寄ったら手酷く咬み付かれるしね」
 俺みたいに、とさも可笑しそうに反町は笑う。
「俺がいつお前に咬み付いた」
 可愛がってやったはずだけど、と言ってやると、反町は彷徨わせていた視線を若島津に固定した。
「可愛がって貰った覚えなんてないね。喰われそうな勢いで咬み付かれた記憶ならあるけど」
 ほら、と付いたばかりの紅い痕を指し示す。
「その割には喜んでいたように見えたけど?」
 そう言ってやれば、反町が僅かに顔を顰める。お前に合わせてやったんだよ、と吐き捨てるように言いながら、顔を埋めていた枕を抱き込むと、その体勢のまま仰向けに寝転がる。
「俺が犬ならお前は何なんだ?」
「俺?俺はそうだな…猫、かなぁ」
 にやり、とクルクルと表情を変える瞳に若島津の姿を映しながら、反町は含んだように微笑う。
 汗で額に張り付いた前髪を鬱陶しそうにかき上げながら微笑うその仕草は、若島津の瞳には酷く扇情的に映って。真っ直ぐに見交わす瞳に映り込むゆらりと揺れた自分の影に、若島津は冷めかけた熱を揺さぶり起こされたような気がした。
 その色香に誘われるままに伸ばした手で、首筋に張り付いた髪ごと白い項を撫でた。嫌がるでもなくされるがままに反町は、猫のように目を細めくすぐったそうに肩を竦める。その肩はまだ仄かに上気したままでしっとりと濡れていた。
「休憩終わりな」
 にやっと笑う若島津に、今まで大人しくされるがままに許していた反町の肌がぎくりと揺れる。
「やだね」
 抱き込まれる寸前のところで反町は身を翻すと、素早くベッドを下り投げられたままの衣服に手を伸ばす。
「折角、今まで以上に可愛がってやろうと思ったのに…残念」
「明日も練習あるんだ、お前に付き合ってたら身体持たないよ」
「練習がなくても付き合う気なんてないだろう?」
「うん」
 居竦まりそうな若島津の視線を受け止めながら、反町はまた微笑う。悪びれないその様子に若島津は大仰な溜息を吐いてみせた。
「何?」
「可愛げぐらい持ち合わせてないと、お前なんか誰も拾ってくれねえぞ」
「野良の方が性に合ってるからいいんだよ」
 おやすみ、とおざなりの言葉を寝そべったままの若島津にかけると反町は一度も振り返らずに自室へと帰っていった。


 扉が小さく音を立て完全に閉まるのを確認すると、抱き損ねた腕で枕を引き寄せながら若島津は溜息を吐いた。その枕に頬を埋めると想い人の残り香がする。
「…犬、か」
 いつもなら軽く受け流すはずの反町の軽口。それを受け流せずに拘っている自分に気がついて、小さく舌打ちをした。自分と幼馴染がそういう関係ではないことを反町自身が一番知っていることだ。なのに何故今更、揶揄られないといけないのか。それが分からないからイライラする。今回の事だけじゃない。そもそも何を考えているか分からないヤツなのだ。密に身体を交えども胸の内を知る事は出来ない。
 気ままに生き、誰にも心を許さない野良猫のような想い人。少しぐらいは甘えるように擦り寄って自分に腹を見せてくれてもいいじゃないか、と思う。
 そのくせ自分を見る瞳は寂しいと訴えかけるのだ。その心の内を明かさぬままに。
『野良が性に合ってる』
 不意にそんな台詞を思い出して、抱き損ねた反町の代りに枕を抱き込む。
 主を定めず好きな場所で気ままに生きていくつもりなのなら、いつかは自分の元から去っていくだろう。餌をせしめる相手を変えるのだろう。反町はいつまで自分の元に居てくれるんだろう。今まで言いたくて言えずにいた言葉を伝えたら、自分の腕の中に飛び込んできてくれるのだろうか。
 そんな取り留めのない思考に囚われたまま、若島津は瞳を閉じた。


 足音一つ立てずに薄暗い廊下を歩く。音の立てないように扉を開け自室に身体を滑り込ませると、反町はベッドに倒れ込んだ。ひんやりとしたシーツの感触が気持ちいい。
 バーカ。何度、胸の内で呟いたのだろう。
「誰も拾ってくれない…ねえ」
 そんな冷やかしを言うから、余計な一言を付け加えてしまって、本心は誰も知らない胸の奥に仕舞い込んでしまうんじゃないか。そう心の中で想い人を責め立てる。だがいくら自分の内側で呟いたところで、何の解決にならないことはイヤというほど分かっているのだけれども。
「ダメだなあ…俺」
 黙って蹲ったままでは、若島津に拾ってもらえない。あの背中に抱き付いて想いを告げる勇気を持たない限りは、人に擦り寄るのは餌だけが目当てだと誤解されたままだ。そんな事は解り切っている。でも今更素直になどなれなくて。つまらない意地と拒絶される怯えで平気を装って、気が付けば悲しいくらい自由の身だ。好きとは言えない意地は時間が経つにつれ、どんどん硬度を増していく。
 だらりと寝転がったままで自分の匂いしかしない枕を手繰り寄せると、抱き損ねられてしまった自分の代りにぎゅっと抱き込む。
 どうして、自分に触れる手はあんなにも優しいんだろう。その優しさを忘れられないのは自分だけで若島津はきっと、あの幼馴染の事で頭が一杯で自分の事など思い出しもしないだろう。今頃は夢など見ずに眠りの波をたゆたっている頃か。毎晩、夢の中だけでも素直になれたらと思っている自分とは違うのは分かっている。
「ほんっとにバカだよねえ」
 優しく触れる、あの手の感触を思い出して小さく笑った。
 いい夢見れますように。そう祈りつつ、反町は瞳を閉じた。
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