不機嫌な背中・4
水煙が舞い上がる。
先ほどまで穏やかだったはずの雨は、いつしか激しく叩き付けるものに様変わりしていた。日向は前髪の奥から睨むようにして低い空を見上げると、傘をさして寮の裏手へと歩き出す。
嵐のように激しい雨は、少し歩いただけで身体に纏わりつき体温を奪っていく。
そんな冷たい雨のさなか、それはぽつねんと立ち尽くしていた。
ひっそりと。
それしか知らないように、ただ無心に。
いつもは力強い光を絶やすことのない、ややつり目がちな瞳は、ただ無気力に雨を映している。
日向は怒鳴りつけたい衝動を抑えながら、それに近づく。だが、自身の纏う剣呑とした空気までは隠しきれなかったのだろう。それは急に振り返った。虚ろげな、光の灯らない瞳で。
「あれ〜、何してんの?」
いつもと変わらぬ口調に、バカと声が出る前に日向は彼の腕を掴んだ。そして無理矢理に寮の裏口へと引き摺っていく。か細い抗議の声がしたが、そんなの構いやしない。
もう、これ以上。
雨に打たれる彼を見ていられなかった。
水滴が落ちて、足元に水溜りが出来る。
裏口の三和土に突如出来たそれは、自分から滴り落ちた雫のせいだと気付いて、反町は苦笑した。
よくよく見れば、頭から足先に至るまでずぶ濡れで。足元の水溜りを見るまで、雫が落ちるほど濡れているのを今の今まで気付かなかった。
いつから雨に打たれていたんだろうと、思い返そうとするが茫洋とした思考じゃわからない。
ただ、酷い頭痛がする。それはひとえに雨に打たれたせいか、それとも睡眠不足のせいか。きっとその両方だろう。立っているのも辛くなって、反町は水溜りの上にへたり込んだ。
あの場所で、自分は何をしたかったんだろうと、反町は思う。レギュラーにあるまじき行為だということはわかる。
それでも、一歩も動けなかった。
冷たい雨が身体を、心を冷やしていく感覚が妙に心地よくて。流れる雫で狭くなった視界で、不機嫌な友人を見つけなかったら、きっと自分はあの場所に今でも立ち尽くしていただろう。
もしかして、あの背中に拾って貰いたかったのだろうか?あの自分のものになることはない背中に。
いや、違う。
拾ってくれるわけがない。
もう、終わってしまったのだから。
その証拠に自分を拾ったのは、その友人だ。その友人も自分を置き去りにして、何処かに消えてしまったけど。
「…バカ、だねぇ…俺」
冷えきった唇は、上手く言葉を紡いでくれない。でも震えるような、掠れた己の声が妙に情けなくて可笑しくて、反町は笑い出してしまった。
きっと可笑しいのは、まだ拾われることをどこかで願っている、哀れな自分。
哀れすぎて、泣くには情けなさすぎて。
余りにも救われないから、だからきっと笑ってる。
「何笑ってんだ」
突如、剣呑な声が降ってきて、頭が何かに包まれた。
「な、なに?」
状況が飲み込めず、反町は頭から身体までをスッポリと包む柔らかなものに触れてみる。
凍えた指先がかろうじて伝えた感触。自分を包み込むそれは、タオルらしいことがわかった。
「雨に打たれすぎて頭がイカれたか?ん?」
まるで、人を小馬鹿にしたような声音に反町はちらりと声の主を睨む。だが一瞬、ぎょっと目を見開いて、反町はタオルの奥に視線を隠した。うるさいと言おうとした口を思わず噤んだのは、不機嫌面でこちらを見据える日向の瞳が心配げだったからだ。
怒られるとばかり思っていたから、心配していたなんて思いもよらなかった。なんとか言い訳しなければと、頭を働かすが頭痛に阻まれて何も思い付かない。仕方なくそのまま黙っていると、不意にタオル越しに頭をくしゃりと掻き回された。
「ったく、今度はダンマリかよ」
口調は乱暴なのに、それなのに濡れた髪を拭う掌は優しい。それがなんだかくすぐったくて、可笑しくて。もう一度笑おうとして、そこで反町は異変に気付いた。
声が出ない。
凍えた筋肉が強張ってしまったのだ。それだけならまだ良かった。指先が、膝が、身体がバカみたいに震え出して、なんとも言えない悪寒が込み上げてくる。
あ、やべえ…。
自分でも驚くほど、急速に体調が悪化している。それがわかる。冷えた身体を温めないと、と思い反町は立ち上がろうとしたが、身体が重くて思うように動かせない。
「おい、しっかりしろ」
反町の尋常ではない様子に気付いた日向が手を貸したが、立ち上がった瞬間に視界がぐらりと傾いだ。くらくらとして視線が定まらない。壁に凭れてやり過ごそうとしたが、眩暈は酷くなる一方。
「お、おい、大丈夫か?」
心配する声がやけに遠い。視線を上げてみたが、視界に日向は入らなくて。膝がガクンと抜けて、今にも崩れ落ちそうな反町を日向が抱きとめる。
ごめんねと。
唇が動く前に、反町の意識が遠のいていった。