不機嫌な背中・6

 ふわふわとたゆたう意識の中で感じたのは、ズキズキと断続的に続く頭痛。
 反町の意識は、その痛みに揺り起こされるようにゆっくりと浮上していく。
 まず始めに反町が感じたのは、自身の頭を撫で擦る柔らかな感触だった。柔らかく優しい手触りがなんとも言えず心地良くて、自分の頬が緩んでいくのを感じた。
 その優しい感触に包まれながらゆるりと記憶が戻ってきた。
 ああ、そう言えば。日向さんとの会話の途中に意識を飛ばしたんだっけ。
 それではこの手はきっと日向のものなんだろうと思ったが、どうも違うような気がする。柔らかい、優しい感触を身体が知っている。
 もしかして。
 一抹の期待を抱いて瞼を持ち上げようとした瞬間、朧気に笑い含みの声が聞こえてきた。
「……、だって……するから…」
 そんなに遠くないはずなのにまるで分厚い壁でも挟んだかのように不鮮明なのは、きっと破れ鐘が響いているかのような痛みのせいだろう。
「……」
 別の声が聞こえて、撫で梳く手の動きが止まった。
「……時は………なんだな、……て」
 …誰?……島野、か?
 不明瞭だった声が少しずつハッキリとしてきた。
 起きるタイミングを完全に逸してしまった反町を聞き手に二人の会話は進む。
「…」
「だって、……に……れて笑って……ら」
「…とどう…ある……よ」
「お前じゃないと……いよ、こいつ」
 …は?俺?俺の話?
 あれだけ不明瞭だった声が、確実な音となって反町の耳に届いて。話が聞きやすいようにと重い身体を横向きに傾ける。
「え?」
 次に届いた耳に馴染んだ低音に、反町はただ驚くだけしか出来なかった。
「だから、反町はお前じゃないと駄目なんだよ。……そうさせたのはお前だろう?」
 島野の言葉に、一瞬反町の身体が凍り付いた。
 お前何言ってんだよと、声に出そうとしたが、どれだけ意識を失っていたか定かではないが、張り付いた喉が引きつれていて上手く声が出なかった。
 こんなのってアリか。
 諦めようとしているところに自分の想いを、よりによって友人に告げられる形で、相手に知られるなんて。
 不意に扉が開閉する音が聞こえて、静寂が部屋を支配する。
 だが、まだ人の気配はある。勘が正しければ、傍にいるのはあの男で。
 今、あいつはどんな顔をしているんだろうか?
 困ってる?
 それとも軽蔑してる?
 どちらにせよ、いい顔はしていないはずだ。なんせ自分は想われていないのだから。
 取りあえずは、だ。
 あの男が部屋を去るまで、反町はそら寝を決め込むことにした。
 今更起き上がっても、合わす顔もないし、想いを告げる勇気もないのだから。


「……マジかよ」
 先ほどまでの島野と自分のやり取りが脳裏にリフレインして、若島津は熱くなる頬を止められなかった。
 もし、そうだとしたら。
 膨らむ期待は抑えようにもない。
 だが、だ。
 せめて、それを反町の口から聞きたかったというのは我儘だろうか。
 島野の言葉に嘘はない。
 それは分かるからこそ、こういう形ではなく反町の真意を本人の言葉で知りたかった。島野とて悪意があったわけではなく、成り行きで言ってしまったのだろうと若島津は思う。
 それとも気付けない自分に焦れたのか。
 若島津は背もたれに背中を預けたままゆっくりと息を吐き出す。
 その仄かに眦を紅くした瞳は無機質なベッドに横たわる反町ばかりを、ただぼんやりと眺めていた。
 反町はといえば苦しげな様子もなく、すやすやと愛らしい寝息を立てている。
 愛しくて。
 愛しくて、たまらない、この想いを。
 この少年が目覚めたらなんと告げよう。
 先ほどと同じように髪を撫で梳けば気持ちよさそうだった寝顔がぴくりと引きつり、瞬間若島津は気付いた。
 …起きている。いつから起きていたのか。そういえば、あの時からか。
 島野との会話の途中、寝返りを打っていた事を思い出した。
 さっきの会話を聞いていながら狸寝入りを継続させようとする反町に、若島津は少しそれに付き合ってやることにした。
 何食わぬ顔で、撫でるような指先の愛撫を髪から頬へと滑らせれば、反町の身体が面白いように強張る。
 そんなに緊張していては最早狸寝入りとは言えない。
「…起きてんだろ」
 囁くように告げて、髪に指を絡める。
 それでもなお狸寝入りを決め込む態度に、湧き上がってきたのは苛立ちではなく、単純な愛しさで。
「なあ……起きてんだろ」
 もう一度囁いて髪を絡ませてた指を、耳辺りをなぞりながら顎へと滑らせる。猫か何かにするように喉元を指先だけで愛撫すれば、くすぐったそうに身じろいだ。
「起きてんじゃねえか」
 そう今更のように笑い含みに告げると、反町の睫毛が微かに震えて、瞼の下の眼球が所在無さげに揺れ動く。
 起きてるなら素直に目を開ければいいのにと、無表情の下でそっと笑う。
 意固地になり過ぎて、どうしていいのか本人もわからないのだろう。穏やかだった表情が僅かに苦いものになって。視線を注がれていることも恐らく気付いているらしく、首筋が薄っすらと桃色に染まっていく。このまま眺めていれば顔中が赤くなるのかもしれない。
 それまで様子を見ているのもいいかと。
 喉元で止まっていた指先を更に下へと滑らせれば、それを拒むように払われた。
 それをきっかけにゆるゆると瞼が持ち上がり、潤んだ瞳が見上げてきた。
「……何やってんだよ」
「やっと喋ったな」
 にやりと笑いながら、払われたその手を髪に差し入れる。情事を思い起こさせるような手付きに、反町は嫌そうに肩を竦ませた。
「だから、何やってんだよ」
 俄かに頬を赤く染めながら、まるで照れ隠しのようにぶっきらぼうに告げた少年に、だが若島津は答えずに笑う。
「俺、頭痛いんだよね。寝かせて欲しいんだけど」
 言外に出ていけと言われて、簡単に引き下がる訳にはいかない。
「そりゃ、雨の中突っ立ってたら、頭も痛くなるだろう」
「…知ってんなら、寝かせてくれよ」
「何で、雨の中突っ立ってたんだよ」
「うるさい」
「質問に答えろ」
「マジでうるさい」
 反町はここで会話は終わりと言わんばかりに布団に潜り込む。
 だが、一向に動き出す気配をさせない男に焦れたのか、反町は布団から顔を出すと大仰な溜息を漏らした。
「お前、わかってんの?」
「何が?」
 反町の言わんとする事を何となくではあるが察していながら即座に聞き返したのは、反町の口から何かを聞けるかもという淡い期待を抱いていたからに他ならない。
「……も、いい加減にしろよ」
 不意にそう低く呟いた反町の剣呑な声音に、若島津は素早く対応することが出来なかった。
 いきなり強く腕を引かれて、ぐらりと視界が傾ぐ。
「っ、おい!」
 制止も間に合わぬうちに反町の身体に覆いかぶさる形になってしまった。
 吐息が触れる。
 額がコツンと当たる。
 近すぎるくらいに近い。
 その距離で呆然と見つめる若島津を苛烈な瞳で見上げて、反町は押し殺したような声を絞り出す。
「なあ、本当にわかってんの?」
 嘆くような声は、どこか掠れて、哀れで。
「島野が言ってたよな、俺はお前じゃないと駄目だって」
「ああ」
「じゃあ何でここに居るんだよ」
 訳がわかんねえよと、思った事が全て出てしまったような呟きに。
 何故わからないんだろうと、若島津は心の中だけで呟く。
 同じ気持ちがなければ、自分を想ってくれている奴の傍になんか居やしないのに。自分より恋愛に慣れているはずの彼がどうして気付けない。
 そういうことかと、不意に思い立った。
 つまりは、自分と一緒なのだ。
 自分が単なる『餌』だと思い込んでいたように、この少年もまた『自分は想われていない』という考えに囚われているから。
 だからこんな簡単なことに気付けない。
「存外鈍いな」
「何だよソレ…はぐらかすなよ」
「居たいから居るだけだ」
 理由は自分で考えるんだなと、囁いて近過ぎた距離からほんの少し顔を浮かす。
「……勘違いするぞ」
 いいのかと。
 反らされる目と同時に投げやりに吐き捨てられた言葉は、だが確かに期待と緊張に震えていた。
「ああ、一生、勘違いしてろ」
 男は囁くように告げて、優しく抱き寄せる。
「仕方ないから…一生勘違いしてやるよ」
 可愛くない事を言いながら、だが震えた腕が背中に回されて。
 いとけない、いじらしい様子に胸が詰まる。
 離さない。
 もう二度とここから出してやらない。
 だから。
「証拠をくれよ」
 キスをしろ、と。
 言外に告げれば反町がそっと距離を縮めてきて、若島津はゆっくりと目を瞑った。
「お前の好きな奴って誰?」
 唇が触れ合う直前。
 思い出したように意地悪く囁かれて、若島津は薄く微笑む。
「お前だよ」
 告げた瞬間、まるでご褒美だとでもいうような甘美な口付けが降ってきた。

 それは誓うように。
 清らかに。
 甘く、甘く。



 もう不機嫌そうに背中を見せるな。
 もう挫けたように雨に打たれるな。
 誓うから。
 一生、傍に居るから。
 一生、勘違いしていてくれ。
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