歪なモノ

 あの時に、似ている。


 溺れたことがある。
 あれは、まだ小学生のころだ。初めて海へ連れてってもらった。初めて見る水平線に馬鹿みたいにはしゃいで。ろくに泳げないのに、沖の方まで行って。そして、荒い波に攫われて、流された。
 気付いた時には水の中。海面にはい上がろうともがいたが、パニックっていたのだろう、上下左右の区別がつかず、海底へと身体は向かっていく。
 息が苦しくて、胸が潰れそうに痛かった。口の中にあった空気が、噛み締めていた歯の隙間から漏れて、泡に帰す。泡が行く先があるべき場所なのに、どうして身体は言うことを利かない。
 いよいよ、必死に噛み締めていた口まで利かなくなり、ごぼっと大量の泡が零れた。吐き出してしまった空気の代わりに、大量の水が身体の中に押し寄せる。飲み込んでしまった水が、肺に残っていた空気を更に押し出していく。体内に水が満ちていく。苦しい。助けて。そう願っても周りはすべて水で、どんどんと押し寄せるそれは僅かながらに残っていた空気さえも吐き出させた。
 水に浸食された身体は、重力に逆らえずに、深い海底へと沈んでいく。スピードを増して。
 もう助からない。どうしてこんなことになったのか、それさえも分からない。底に待ち受けるものに身を任せるしか、術がなかった。でも、そうなる前に助けられたのだけど。


 どうして今になってそれを思い出したのか、よく分からない。ここは地上で、海から遠く離れたところで、尚且つ合宿中で、極め付けにミーティングの真っ最中に。
 けれども、この覚えのある息苦しさは。あれとよく似ている。だから思い出したのか。
 今、自分の周りにあるのは、間違いなく自由に呼吸できる空気だ。それなのに、息が詰まる。あの時のように、何かが押し寄せ、体内に入り込もうとする錯覚さえ覚えるのはどうしてか。
 息苦しさに手を胸にやり、意識だけでもミーティングに引き戻そうとした。だが、それが逆効果だったのか、息苦しさは加速してしまった。
「…どうしたの?」
 浅く、荒い呼吸をする自分に、誰かが声をかけた。それを確認する余裕さえなかった。視線が自分に集中し、途端、口から何かが這い出ようとしたためだ。口を手で覆い、それを必死に飲み込む。視線だけを巡らし、自分に向けられる視線を辿った。そして気付いた。自分でもどうかと思う。けど確かだ。
 あの視線。あの不遜な眼から降り注がれる視線。それが自分を包もうとするから、息苦しくなるのだ。途切れ途切れだったはずのものが、今、状況に助けられ自分に注がれている。押し寄せてくる。あの時の水のように。
「大丈夫?吐きそう?」
 勘弁してくれ。泣きそうになった。誰だか分からないが、こんな視線が一斉に集まるような状況なんて作らないでくれ。もう、口から手が離せない。離せば、それは溢れ出してくる。
「吐いたらさ、楽になるよ」
 違う。楽になどなりやしない。こみ上げてくるのは、吐き出そうとしているのは、吐瀉物でもなんでもなく、感情で言葉だ。
 苦しい。助けてくれ。
 唇を噛み締め、必死に飲み込もうとするが、うまくいかない。
 あの時と似ている。でも状況が違う。今自分が溺れているのは、あの眼で視線だ。自力でどうにかするしかないのだ。でもどうやって。息ができなくなるほど、溺れているのに。
 なぜ、こんなことになった。なぜ、あの視線に溺れる。あんなに嫌いだったはずの男なのに。なぜ、あの男の視線にだけに反応し、日の目を見ることもなく底に押し込めた歪な感情を引きずり出そうとするのか。


 突き飛ばして切り裂いて沈めたはずの歪な感情が、暗闇の中でもがき、あの男を求めている。
 認めたくはないが、つまりはそういうことなのだ。
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