髪を切る日
別に髪を切ろうなんて、朝起きた時点では、これっぽっちも思っていなかった。
でも、今自分は、不思議な事に美容院にいて、髪を切っている。
ただ、暇だった。
帰りの飛行機まで、映画を三本見れるくらいの時間があって。これが地元でなら、簡単に時間を潰せた。哀しい哉、佐野が今いるのは、大都会東京で。大きな引出物を抱えて、観光したり買い物をしたりする気分にはなれず、途方にくれている時に視界に飛び込んできたのが、たまたま美容院だった。そこで初めて、髪でも切ろうか、という気になっただけで。
バサリ、とハサミが髪を切り落とす度に、佐野は思い出までも落としている錯覚に襲われた。別に後生抱えていなきゃいけないような思い出なんざ、なかったのだけれども。それでも何だか良い気分にはならない。悲しいような寂しいような気分になるのは何故だろう。
失恋して髪を切る。そんなの何時の時代の乙女だなんて思ってしまうのだけど、これはこれでなかなか理にかなっているんじゃないかなあと、ふと思った。
儀式、みたいなものなんだろうな。きっと。
髪を切る事で心をリセットしたいんだろうな。きっと。
だから、バサリと音を立てて落ちる毛束が寂しいのだ。思い出がたくさん詰まっているから。でも、それは自分の中に、残していてはいけない思い出なのだ。
だから、女は髪を切るのかもしれない。
新たな恋を探す為に。
自分は決して女ではないけれど、この微妙な乙女心が分かるような気がする。
でないと、短く切ってください、なんて言わない。
自分の想いが道に外れた部類に入るなんて事は、自覚した時点で分かっていた。けれども悲壮感とかは不思議なほどなかった。それは開き直りでもなんでもない。ただ新田という人間を好きになっただけだから。それがたまたま新田は男で、自分も男だっただけの事だ。でもそれは自分の考えで、新田の考えではない。今の関係を壊すリスクを冒してまで、伝える気なんてなかった。それに新田が自分をそういう対象で見ていない事なんて、分かり切っていた。だから伝えなかった。それが今の状況を招いたのだけれども。
鏡の中の自分が、少しづつ知らない自分になっていく。
誰も知らない、新しい自分。
返信ハガキを投函した時点で、自分はこの想いを吹っ切れたと思っていた。
でも、昨日。あの瞬間。
湧き上がってきたのは、後悔の、念。
伝えればよかった。なんて今更ながらに、思ってしまって。吹っ切れたと思っていたのは自分だけで、結局何一つ吹っ切れていなかった。諦めるなんていつでも出来ると、心の何処かでそれを先延ばしにしていたのかもしれない。
でも、今日で、この瞬間で、キレイに吹っ切らないといけない。
伝えない。
そう決めたのだから、それを覆すことなど出来やしない。してはいけない。それにアレはもう手の届かない人になってしまった。手に入れたくても、もう新田はあの人のもので、届かない人になったのだから。
隣りの人が、笑顔で席を立つ。素敵になって、本当に綺麗に笑うから、なんだか心が温かくなって、釣られて微笑んだ。
カットが終わって、ケープを取って貰って。鏡に映ったのは、初めて見る、自分の姿。頭が軽い。首がなんだか涼しい。耳が出るぐらいに短くしたのは、何時ぶりだろう?
新しい自分になった。髪の短い自分を見て、周りはどんな反応を示すのだろう?
ありがとうございました。
美容師に見送られ、扉を開ける。涼しくなった首元が、なんだかこそばゆい。
でも。
髪を切ったからといって、新しく生まれ変わったからといって、いきなり一遍に吹っ切れないんだなぁ、と佐野は思う。まだ胸の奥に残る想いが、それを痛いほど知らせてくる。
それでも、幾分かは心は軽くなった。これからはもっと軽くなって、そういやこんな事あったなって笑い飛ばせる日が来るだろう。
だから、前向きに歩いて行こう。
そうすれば。
心から、結婚おめでとう、と。
言える日はそう遠くないはずだ。
襟元をくすぐる風に、目を閉じて。
佐野は思った。