約束とおねだり

 ふと目を覚ますと、いつもと違う光景。
 どうやら、ここはベッドの中ではなくソファの上らしい。
 白く差し込む朝の光。
 垂れ流しのままのテレビが8時過ぎを告げている。ぼーっとした頭で記憶を呼び戻す。最後の記憶は確か22時過ぎで。ニュースを見ていたような気がする。
 ん、と小さく伸びをすると身体の節々が痛んだ。疲れが溜まっていたとはいえ、若島津がこんなに爆睡するのは久しぶりの事。6時に鳴るはずの目覚ましが鳴らなかったのは今日がオフだからだ。
 とにかく眠気を纏ったままの頭と狭いソファで寝た事で痛みを訴える身体は、ベッドに横になれと誘惑してくる。
 休み。その事実だけが頭に残り。
 ベッドに潜り込むと、意識を夢へと飛ばした。



 次に目を覚ますと既に窓からはオレンジかかった光が差し込んでいた。枕元の時計は17時を指している。
 今度は寝過ぎたせいで酷く身体がだるい。が、充分に睡眠を補給した身体は空腹を訴える。ペタペタと足音を響かせて、台所へと向かう。
 せっかくの休み。このまま家でゴロゴロしているのは、もったいない。久々に呑みにでも行こうかと考えを巡らす。そう言えば、と若島津は明日もオフである事を思い出した。それなら反町のところでも行こうか。
 そんなことを考えながら冷蔵庫を開けると、見慣れない箱が一つ。
 なんだこれ?
 訝しげに箱を開けると、まず自分では買うことのないケーキ。
 いつ買ったっけ、俺…。あ、昨日買ったん………………………。
 ……ケーキ?
 ……昨日買った?

『26日は何の日か覚えてる?』
『ああ。26、27と休みだから、ケーキ持って行くよ』
『マジで?』
『ん。25日の夜にそっちに行くから』
『じゃあ夕飯作っとくからっ!』

 26日って、今日ですよね…?
 25日の夜って、とっくに過ぎてますよね…?
 さーっと血の気が引いて、冷汗がダラダラと流れ出す。
 ……完全に忘れてた。
 急いで着替え、ケーキを片手に部屋から飛び出した。




「あ、いらっしゃい」
 絶対に怒っているだろう、と思っていた反町は意外にも、いつもの調子で若島津を出迎えた。
「…あ、ああ」
 普段と同じ笑顔を浮かべる恋人に些か拍子抜けしたものの、若島津は促されるままに部屋に上がり込んだ。
 もしかして、反町も忘れていたのだろうか。
 そう思った刹那。
 若島津の目に飛び込んできたのは、有り得ないほど散乱したリビング。あちこちに散らばる酒瓶。それは明らかに反町一人で呑んだものと思えなかった。
「ごめんね、すぐ片付けるから」
「…誰かと呑んでたのか?」
「ん、井沢と」
「…何で」
「俺が呼んだの」
「…何で呼んだ?」
 どこか怒気を孕んだ声に反町は片付ける手を休め、振り返った。
「別にいーじゃん」
「ああ?」
 囁くように小さい声。
「別にいーじゃんか、呼んだって」
「よかねーよっ、何で呼んだんだって聞いてんだよ」
 言葉を返した若島津の横を何かが通過した。振り向く間もなく、何かは大きな音とともに壁にぶつかり、砕け散った。
 目を凝らすと、それは先程まで反町の手の中にあった酒瓶。
 らしくない行動に、やっぱり怒ってたんだ、と思ったのも一瞬だった。
 ぱしん、と小気味いい音が部屋に響いて、頬に広がる痛みに叩かれたのだと気付いた。痛む頬に触れると、じわっと熱い。
「何する…」
「てめえが来るっつったから、飯作ったんじゃねーかっ!」
「…っ」
「いくら待っても来ねえし、携帯繋がんねえし…一人じゃ食い切れねえから、井沢呼んで一緒に呑んだんだじゃねえかっ!」
 呆然と立ちすくむ男を反町は鋭く睨み付ける。
「…浮かれてた自分がバカみてえ…てめえは忘れてるしよ」
「……悪い」
 謝る男に反町は呆れたように溜息を吐いた。
「……埋め合わせは」
「いらねえ」
「え……?」
「んなもん、されても嬉しくねえ」
「……」
「帰れ」
 反町は酷く冷淡な面持ちで彼を見据え、凍てつくような低音で告げると再び背を向けて部屋を片付け出す。
 怒るのは分かる。事実、怒らせる事をしたのは若島津だ。
 だが、帰れとは。
 言い訳すら聞こうとしないその態度に怒りが沸いてくるのが分かった。
 でも。
 荒れた部屋を見れば。
 テーブルに残った残骸を見れば。
 この恋人が、いかに自分が来るのを楽しみにしていたのが分かる。
 だから怒るに怒れない。
 若島津は深く溜息を吐くと、反町の傍に腰を下ろした。それでも彼を見ようともせず、片付ける手を休めない反町の前に、ことり、とケーキの箱を置いた。「誕生日おめでとう」の言葉を添えて。
 その言葉に反町がピクリと反応した。顔を伏せ、ゴミ袋を持つ手が震えてる。
「…ずっと待ってたんだぞ」
 囁きにも満たない、か細い声。
「…ごめんな」
「もういい」
「は…?」
「謝んなくていい」
 すっと顔を上げると、反町は彼を見据えた。
「その代わり…プレゼントくれたら許してやる」
 事もなげに出された提案に、彼は小さく笑った。どんな無理難題でも許されるのであれば、何だって良くて。
「じゃ、何?」
「取り合えず一年分」
「は?」
 反町の言葉の意味を計り損ねた彼は僅かに小首を傾げた。
「お前、を俺に頂戴」
 くれるだろ、と笑う反町に「勿論」とあっさりと了承した。
 こんなことで許されるなら、一年分と言わずに何年分でも。




 即答した瞬間、この上なく幸せそうな顔をした反町に彼は、やっぱり俺の中心はコイツなんじゃないか、なんて脳みそ溶けてるような解答をはじき出してしまった。
 今までで一番のおねだり。
 ……それはなんて、恐ろしくて幸福なものだろう。
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