眩暈

 逃げることなんてできない。
 まるで病魔のように身体を蝕んでいく、それは。
 貴方を愛しいと想う気持ち。


 茹だる暑さの中、日向は一人、教室にいた。
 その机の上には大量のプリント。IH間近という事で免除された追試の代りの物だった。
 今日中に提出しなければならないのに、問題に行き詰った彼はぼーっと窓の外を見ている。
 外からは打ち返された硬球の音。
 試合さながらの練習に、日向は、ただぼんやりと視線を送る。
「終わった?」
 がらりと扉が開いたと同時にかけられた声。
「いや、まだ」
 日向が言い終わる前に、反町は前の席に腰かけると、行き詰ったプリントを覗き込む。
「…ここ、間違ってる」
「マジかよ」
 声に釣られ、同じように覗き込むと、反町の顔が思ったより近い距離にあることに気づいた。
 首をほんの少し伸ばすだけで触れてしまいそうな、そんな距離。
 触れたい、と思った。
 だが、その思考を振り切るように、日向は視線を落とした。
 それなのにいつもより長めな前髪が、窓からそよぐ風のせいでそこはかとなく揺れて。柔らかな髪が、日向の鼻先をくすぐる。
 触れと言わんばかりに。
「これ、邪魔」
 我慢しきれなかった日向の無骨な指が反町の前髪に触れる。友人というには少々甘すぎる手付きで。
 さらり、と前髪を撫で梳く指に、心臓が高鳴る。
 だが反町は素知らぬ振りを通し、平然とした表情で甘すぎるそれを受け入れた。
「髪、伸びたな」
 甘く低い声。
 それは毒のよう。でも、どこまでも愛おしい。
「仕方ないじゃん、切りに行く時間、ないもん」
 そう抑揚のない声で答える反町の視線は、日向に向けられることは無い。
 甘く柔らかく自分を見ているだろう、その瞳には、自分と同じ熱を孕んでいることを知っていたから。
 初めは単純に、友人だった。その感情が、友人の枠を超えたのはいつのことだったか。
 きっと、この友人は反町の感情を見抜いているに違いない。だが、見抜いた上で知らぬ振りを通すだろうということも、反町には解っていた。
 それは、互いの恋人を思ってのことではないことも。
「お前の髪…柔らかくて気持ちいい」
 蕩けそうな甘さを含んだ指に、声に、泣きそうになる。
 優しくなんかしないで、と卑屈になった心が叫ぶ。
「きっとお前は…どこも柔らかいんだろうな」
 切なさを含んだ声に、反町はやんわりとその手を振り解いた。
 これ以上は駄目だと、お互いに解っていたから。
「言う相手が違うんじゃない?俺、松山じゃないよ」
「もう一つ、欲しいだけだ」
「バカじゃないの」
 射抜くように日向に向けられた反町の瞳が、怯えたように揺れる。
 怖いのは、怯えているのは、貴方からの想い。
 日向だって、ちゃんと解っている。
 互いが想い合っているという、揺るぎない事実。
 それは、告げてはならないのだと。
 それは、確かめ合ってはならないのだと。
 愛しい人の為ではなく、自分の為に。
 友人の枠をはみ出してはならないのだ。
 告げてしまったら、確かめ合ってしまったら。
 二人して堕ちていくだけ。深い深い闇に。
 この居心地のいい場所を失いたくないから。
 友達として、彼の傍に立っていたいから。
「…俺が本気で口説いたら…お前どうする?」
「逃げるよ…あんたの届かない所に」
「そうか…」
 本気になって、求めあって、後戻りできない場所に踏み込むなんて、馬鹿げてる。
「…大丈夫だ、ぜってー、しねえから」
 そう言うと、日向は苦笑を滲ませた。
 振り切れない想いに、心が悲鳴を上げる。
「解ってる、解ってるよ」
 それだけ言うと、反町は背を向けた。熱の篭った視線を彼に向けることを止められそうになくて。
 でも嘘みたいに信じてるから。踏み出すことは無い、と。
「早くそれ、終わらせてよ。夕飯食いはぐれちゃう」
「ああ」
 日向は小さく笑うと、置き去りにされたままのプリントに視線を戻した。


 気付きたくなかった想いに、自分は振り切る為に、自分を何処まで走らせればいい?
 貴方の腕が、声が、背中がここに在って。
 想いを告げられることは許されないなんて。
 なんて、自分たちが選んだ路は残酷なんだろう。
 こんな想いは消えてしまえばいい。
 それでも。
 逃げることなんてできない。
 貴方は、貴方への想いは。
 何処までも追ってくるって。
 泣きたい位に、分かるから。
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