氷雨

「もう止めとけって」
 反町の手から零れそうだったグラスを奪い取ると松山は自分の傍らに置いた。
「ちょっ、返せよ」
 ぶぅっと膨れっ面で睨み付けるものの、ふわふわと定まらない視線じゃ何の効果もない。
「飲み過ぎだって」
「だいじょーぶ、まだ飲める」
「酔っ払いは皆そー言うんだよ」
「酔ってねーって」
 そう隣で呟かれた言葉に視線だけ返すと、松山は手の中で弄んでいたグラスをゆったりと傾けた。
 酔っていないと言われたら確かにそんな気もする。元々、反町は酒には強いからこれしきの酒量では酔うはずもないのだけれども(リミッターが外れたらとんでもない事になるが)。
 それでも、だ。
 今日の反町は見ていてどこか危うい。
 店に入るなり、度数の高い酒をまるで水か何かのように流し込んで。少なくともこんな飲み方をする人間ではない。
 何かあったのだろうかと松山が思いを馳せていた、刹那。
 反町の手がスルリと伸びて松山の手の中のグラスを奪い取ると、一気に煽った。
「っめぇ、ヒトの飲むなよ!」
「松山が俺のを取るから悪いんです〜」
 ごくごく、と喉に流し込んだところで呆れたような松山の溜息が重なった。
「一気に飲み過ぎだ、馬鹿。倒れてもしらないぞ」
 空になったグラスを差し出して、反町は小さく頬を膨らませた。
「うるさいなぁ、大丈夫だよ。なあ、おかわりちょーだい」
「…まだ飲む気かよ」
「別にいーじゃんか。今日は飲みたい気分なんだよ、付き合えよお」
 コレ以上飲ませるとちょっとマズイかなと思ったのだけれども。
「…仕方ねぇなあ、これで最後だからな」
 自分の言葉に顔を綻ばせた反町に、つくづく自分は甘いなと松山は思う。飲みたいのであれば、それを断る理由がある訳でもないし。それに酒に逃げる理由も気にかかる。
「うん、お勧めでも何でもいいからさ」
「お勧めねえ」
 松山は差し出されたグラスを置き、取りあえず同じものを二つ頼んだ。ふう、と長い息を吐き出すと、ちらりと横目で反町を見遣る。
 覗き込むように横流しの視線を送れば、反町は不思議そうに小首を傾げた。
「…なあ、反町」
 囁いた声が思ったよりも酷く甘く響いてしまって、反町が驚いたように唾と一緒に息まで呑みこんで身構える。
「な、なに」
「お前さあ、何かあったか?」
 告げた言葉に、反町はぎくりと身体を強張らせた。核心に迫る言葉ではないはずなのに。反町が語り出すのを何も言わずにじっと待っていれば、不意に反町がふわりと笑った。
「…酔って、忘れてしまいたいんだよ」
 耳を傾けていなければ聞き取れない程の小さな声に。松山は、何を、とは聞き返せなかった。


 新しいグラスに口をつけながら、松山は考えていた。取りあえず、反町に何かあったのは決定的で。酔って忘れてしまいたい程辛いことがあったのなら聞いてやりたいとは思うのだけれども、どこから聞けばいいのかわからない。話のきっかけさえ掴めたら聞き出せるのかもしれないが、でもきっと反町の事だから、自分が突っ込んでくることは望んでいないはずで。
 どうしたもんかと、松山が溜息を吐き出した、刹那。
「…イヤになるよねぇ」
 反町は差し出されたばかりのグラスを一気に飲み干すと、勢いよくテーブルに置いた。
「何だよ、急に」
 訳がわからずに松山が隣を見遣れば、反町が重い溜息を吐いた。
「ヒトがさ、やっと振り切れたと思ったのにさ…」
 そう言いながらやわい笑みを見せる。
「結婚するんだと」 
「は?」
「…前の彼女」
 反町の言葉を松山はグラスを傾けながら受け取る。
 何と言葉を返せばいいかわからない。
「…女って何でこんなに切り替えが早いんだろうね」
 半年程前に別れたのは知っていた。だが未だにその恋を引き摺っているのも知っていた。
 何だかやり切れなさが胸の内に募る。
「松山ぁ」
「ん?」
「俺の代わりに泣かないのっ」
「泣くか、ボケ」
 震える声で笑おうとする反町に悪態をついてみたものの、実際は松山の視界は滲んでたわけで。
「…涙目なのはお前だろうが」
「俺のは違います〜、隣のタバコの煙が目に染みただけです〜」
 咄嗟に言い繕ったのが見え見えの言い訳。次の句が紡げずに俯いた反町を見遣ると、松山はさっさと会計を済ました。
「松山?」
 腕を取って店を出ようとする松山に、反町が怪訝そうに視線を寄越した。ちらりと横目で見れば、何かを訴えかけるような瞳。
「…仕方ねえなあ」
「え?」
「飲み足りねえんだろ、朝まで付き合ってやらあ」
 不貞腐れたように言う松山に、反町がふっと表情を緩ませた。
「朝が来る前にちゃんと帰ります〜」
 少し茶化して言うその声は、まだ微かに震えていたけれど。顔を見るのが何だか気が引けて、松山は勢いよく店の扉を開く。
 外は一足早い冬の雨。
 傘がないわけではなかったけれど、そのまま歩きだそうと足を踏み出した瞬間。
「…松山がいてくれて、良かった」
 背中に呟かれた声に。
 松山は少し涙目な反町に腕を取ると、氷雨降る夜を歩きだした。
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