一夜の過ち

 眩しい。そう感じて、反町は重く張り付いた瞼をゆっくりと持ち上げた。ぼんやりと、霞みがかかったように視界が白く濁る。
 だが、目の前の景色を認識する前にどっと押し寄せてきたのは、酷い喉の渇きと全身を支配する倦怠感だった。反町は低く呻きながら、ずるずると引き摺るようにぐしゃぐしゃになったシーツから身を起こす。
 刹那、ぐらりと視界が揺れた。
 重苦しくて酷い頭痛と吐き気が伴う胸焼けに、一瞬飛びそうになった意識をなんとか繋ぎ止めながら、反町は四肢に力を込めてやっとのことで身体を支えた。
 完璧な二日酔い。
 ここまで酒が抜け切らないのも、今の彼にとって、酷く珍しい。
 それにしても。
 身体に纏わりつくべたついた汗が、酷く不快だ。そして、その段になって、反町は自分が一糸纏わぬ姿であることに気付いて、ぎょっと目を剥いた。
 え…、何で?
 戸惑いながら額に張り付いた前髪を掻き揚げて、渇き切った喉奥に強引に唾液を流し込む。崩れ落ちそうな身体を叱咤して、ゆるりと視線を巡らせた。
 知らない部屋の広いベッドに、一人。
 部屋の装飾から推察すれば、どうやらここはホテルの一室らしい。
 …えーっと。
 そして、痛む頭を押さえながら、反町は記憶の糸を辿り始めた。


 昨日、反町は酷く荒んだ気持ちでいた。その証拠に昨日の出来事などまるで覚えていない。ただ何かがあったと言う訳ではないのは覚えている。そういうことは今までにたまにあった。それは大概考えごとに没頭しすぎた時に起こるものだったのだが、昨日ばかりは勝手が違った。何故か突如として虚無感に襲われて、それはあっという間に何かを壊してしまいたい衝動にまで転化してしまった。だからといって、衝動に身を任せて、何かを壊す気は起きなかった。でも衝動は治まらない。どうしようかと、反町が途方にも似た思いでいる時に、携帯が鳴った。電話の主はあの男。どういう会話の流れかは覚えてないが、ともあれ男と飲みに行くことになった。

 と、ここまではハッキリと覚えている。だがここから先となると、記憶は断片的になってしまっていた。

 男と二人、浴びるように飲んだ。ひたすら飲んだ。腹の中に居座り続ける衝動を、酒で紛らわせてしまいたかった。それからもグダグダと飲み続け、店を何軒かはしごして。それから流されるようにホテルに入って、そして、一線を越えてしまった。


 最後は怪しいものだが、大体は事実に沿っているだろうと、反町は思う。ホテルのベッドに全裸でいるのだから、きっとそういうことなのだろう。
 はあ、と何ともしがたい溜息を漏らして、反町はベッドに倒れ込んだ。汗を吸って湿ったシーツの肌触りが、何とも言えず気持ち悪い。
 この形容しがたい、重くのし掛かる気分は何なんだ。
 一線を越えた。
 それについてのダメージはほとんどなかった。何でかは分からないが、とにかくダメージはなかった。
 だから、問題はそこじゃない。
 反町の気分を重くさせているのは、あの男がこの場所にいない、ということだ。
 放置プレイって、一体どういう了見してんだよ。
 確かに、朝起きたら見知らぬ場所で、且つその隣りに全裸の男がいたら、現実逃避したくなるのは分かる。けど、だからといって本当に放置することはないと思うのだ。知らない仲ではないのだし、目覚めるまで傍にいてくれてもいいのに。それか起こしてくれてもいいのに。
 ていうか、ここの料金はどうなっているんだ?払ってくれていたらまだしも、未払いなら少し付き合い方を変えるべきかもしれない。
 …マジでムカつく。
「あーーーーー…」
 苛立つ気持ちを口にするはずだったのに、変わりに出てきたのは言葉にならない単音。酒で焼けてしまった喉じゃ言葉など出て来もしない。
 当然、苛立ちは治まるはずもなく。
「若島津のバーカ」
「…誰がバカだ」
「え?」
 なんとかふり絞って出した弱々しい独り言に、突如合いの手が入ってきて、反町は慌てて身体を起こした。身体を起こした視線の先、そこには風呂上がりらしく腰にバスタオルを巻いた若島津が立っていた。
「…居たの?」
「…居たよ」
「いつから?」
「お前が変な声を上げた辺りから」
 じゃあ声かけろよと反町は思ったのだが、今すべきはそれじゃないとも思った。
 まずは確認しなければならない。昨日の出来事について、この男がどこまで覚えているかを。
 でも、どうやって切り出そうか。問題が問題だけに不躾に聞く訳にもいかない。かといって、遠回しに聞けば自分が墓穴を掘ってしまいそうだ。
 さあ、どうしたもんか。
 ぐるりと視線を這わせて頭を働かす。だが、二日酔いの頭は期待通りには動いてはくれなかった。意識はあちこちに飛躍してしまうから、物事をじっくりと考える余裕などまるでない。
 きっとそれは、この場が静かすぎるからだと、反町は思う。
 だって、若島津は黙ったままだ。何かを話す風でもなく、考え事をしてる風でもなく、いつもの仏頂面でこちらを見据えるのみだ。そして反町はその間、黙って頭を動かしていたので、当然その場は沈黙が支配する。
 この男と一緒にいると、それはよくある。そして、反町はそれが嫌いではない。
 でも、今は別だ。この沈黙が思考の邪魔をし、果ては思考をあらぬ方へ導こうとするのだから、厄介だとしか思えない。
 マジでどうしようと、反町が息を吐いた瞬間、その空気に耐えられなくなったのは若島津の方だった。
 若島津は何とも言えない表情を浮かべて、これまた何ともしがたい吐息を漏らすと、ベッドの端にこれまた気怠げに腰掛けた。
 その姿には逃避感がありありと醸し出されている。
 この男が自分が醸し出す空気に耐えられなくなるとは珍しい。それほどこの男も混乱しているということか。
 そりゃそうだろうな。
 誰がこの事実をあっさりと受け入れられるんだ。
 逃げ出してしまいたい。でもそれをする前に、投げ出す前に、逃げ道を探さないと。今までの関係を終わらせることなく、以前と変化させることないような。きっとそんな逃げ道があるはずだ。
 となれば、こんな逃避感丸出しな男に構っている暇はない。本腰を据えて、頭をフル回転させないと。
 ベッドに倒れ込みそうだった身体を起こして座り直した、刹那。
「っ!」
 訳の分からない腰痛が身体中を駆け巡った。叫びそうになったのを寸でのところで堪えると、項垂れたままの男に気付かれないように、ゆっくりと身体を元の体勢に戻す。
 なんなんだ、こりゃあ。
 痛い、マジで痛い。まさかとは思っていたが、そのまさかだ。
「…あの」
 こんな非常事態に男は何とも弱々しい口調で声をかけてきた。
「…何?」
「あ…、いや…その」
 酷く歯切れが悪い。
 さっさと言えよ、このやろー。こっちはそれどころじゃないんだよ。
「…大丈夫、か?」
「は?」
「だから…その、……腰」
 この、馬鹿野郎。
 これで一つの望みは絶たれてしまった。この一言から推量されるのは、この男は昨日の出来事を覚えていること、そしてそれが激しかったということだ。
 となれば、手は一つ。
「痛い、半端なく痛い。お前、何したんだよ」
 覚えていない方向で行くしかない。
「まあ…酔ってたからな」
 そう言ったきり男は黙ってしまった。
「…酔ってた、ねぇ」
 随分と便利な言葉だ。この言葉を言ってしまえば、全てこれのせいにしてしまえるんだから。
 …ちょっと待てよ。
 言い換えれば、昨日の出来事は全てこれに押し付ける事が出来るんじゃないかと反町は思った。
 酔っていたから、ついその気になってしまった。
 酔っていたから、一夜の過ちを犯してしまった。
 そうだ。全て酒のせいにしてしまえばいい。
「酔ってたなら仕方ないね。まあ、俺も酔ってたし」
 だから、仕方ない。それで全て片がつく。
「…悪ぃ」
「え?」
 何で謝るんだ、この男は。酒のせいにしてしまえばいいものを、何故謝る必要があるんだ。事もあろうか、少し頬を染めて。
 何で、頬を染めるんだ。ていうか、頬を染めるぐらいの事を、お前はしたのか。
「そんなことをする気でホテルに連れ込んだ訳じゃなくて……グダグダだったから介抱するつもりで…」
「……」
「でも…お前があんまり可愛かったから」
「は?俺が?お前じゃなくて?」
「何で俺なんだ。お前だ」
 ああ、だから頬を染めるな。ていうか、そんな事を頬を染めながら言う若島津を可愛いと思った俺は何なんだ。
「…悪かった」
「え、あ、いや、その」
「順番も間違えた」
「はい?」
 何なんだ、この展開。
 急すぎる展開に反町の頭は更に混乱をきたして。ぐるぐるとこんがらがった頭は、事もあろうか、あやふやだった記憶を揺り覚ましてしまった。


 そういえば。
 キスをしてきたのは向こう。突然の事に抗えなかった反町は、ベッドに押し倒されて。組み敷いた若島津が興奮しているのか息が荒かったのを覚えている。そんな彼を見て、心臓を鷲掴みにされた事も。
 だから。
 だから、自分はこの男を受け入れてしまったのだ。


 ああ、そういう事か。
 記憶が蘇った途端、何となく反町は腑に落ちてしまった。
 過ちによるダメージがなかった事も、目覚めた時に男がいなくて苛立った事も、この関係を手放したくなかった事も、頬を染めた若島津を可愛いと思った事も。
 はあ、と吐息を漏らして視線を若島津に定める。男の頬は更に赤くなり、何かを必死に考えている。
 もう口籠る男が何を言おうとしているのか、分かってしまった。
 これは自惚れではなく、きっと…。


 男の口が開くのを待つ。
 どんな告白を紡ぐのか、期待しながら。
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