無題
お前さ、もう少しあいつのこと真剣に考えてやれよ?
いつもは人のプライベートに関知しない幼馴染が、ふいに真剣な顔つきで零したことがあった。
あのときは心底不快に思ったものだ。
いったい、何をどう考えてやれというんだ。
あんな、人をからかうことが至上の喜びとばかりに、毎日飽きもせずに絡んでくるような奴。
さすがに、同情しちまうよなぁ。
そう言って苦笑を滲ませたのは、その毎日飽きもせずに絡んでくる奴と仲のいいチームメイトだった。
同情ならば、こちらに向けて欲しい。
どう見ても被害者は自分のほうだろう。
平穏に学校生活を送って、サッカーだけに集中したいだけなのに、奴のせいで毎日落ち着く暇もない。
「はあ……」
風呂でゆっくりと浸かっていたのにも関わらずとれることのない疲れに、思わず溜息がでた。精神的な疲労だろうな…。思い当たる原因がふいに脳裏に浮かんで、もう一度溜息を吐く。
つい、先日のことだ。
「あのな、飽きないか?」
顔を合わせるたびに吐かれる暴言。仲がいい証拠だなんて周りは笑うけれど、自分としてはこんなくだらないことで時間を無駄にしたくない。
律儀に相手してやるのが何だか急にバカバカしくなってしまって、問いかけた。
「……だって、こうでもしないと、俺を見てくれない、から」
返ってきたのは、予想だにしなかった一言で。思わず振り返って、視界に飛び込んできたのは静かな微笑。
初めてみた表情に、こんな顔もするのか、と正直驚いた。
それから、奴の真意を探りようになった。あの、暴言の裏には何かが潜んでるんじゃないかと思えて。
いや、違う。あのときの奴の微笑が頭を離れなくて。
そうして数日過ごしてみたものの、奴の真意を垣間見るどころか、こちらの心的ストレスが溜まっていく一方だった。
アレ、何だったんだろうな…。
あの時の微笑を思い出して、胸の内で呟く。気分屋のあいつのことだ。たまたま見せただけだろう。そう考えたほうがいいかもしれない。これ以上真意を探っていれば、それを知る前に自分の身が持たないと判断した刹那。
たまたま通りがかったランドリーにあり得ないものを見つけて、また溜息が漏れた。
「…アンタ、何やってんですか」
乾燥機の前で椅子に座ったまま眠りこける幼馴染の姿に、盛大な溜息が漏れた。幼馴染が寝てしまって随分と時間が経っているのだろう、乾燥機は動きを止めていた。
「ほら、起きて」
「…ん」
乱暴に肩を揺すれば、幼馴染がゆっくりと瞼をこじ開ける。
「あ…、悪ぃ、寝てた」
「悪いと思うなら、部屋で寝ろ、部屋で」
「ん…、そうする。あ、洗濯もん…」
「畳んでアンタの部屋に持ってくから」
「ん……」
まだ半分は夢の中なのか、幼馴染はふらふらとした足取りで自室へと向かう。
「…ったく、しっかりしろよな」
その背を見送って、乾燥機から洗濯ものを取り出し、また溜息を吐いた。
これがからかわれる要因なんだろうな。
畳む手を休めることなく、取り留めのないことを考える。
自分でも自覚はしているが、あの幼馴染には甘いというか世話を焼きたがる傾向がある。ゆえに幼馴染との関係を疑われたこともあった。だが、実際の関係は友人としてのものしかなく。周りもそれがわかってきたのか、自分が幼馴染に甘かろうが世話を焼こうが、誰にも咎められることもなく囃したてられることもなくなってきたのだけど。
でも、この性分を改善しないとな…。
なんせ、奴の暴言の半分はこれ関連なのだから。今更ながらに吐かれる暴言の八割は占めてるんじゃないかと思う。
何で、今更。
心からそう思う。ずっと言われ続けていたのなら、自分も過敏に反応することもなかっただろうし、ストレスを溜め込むこともなかった。
何時からだろう…、からかわれだしたのって。
「何やってんの?」
ふいに背後からかかった声に、思わず身体が強張った。だが、そんな様子を悟らせることなく振り返る。
「見りゃあわかるだろ、洗濯もん畳んでんだよ」
至極面倒くさそうに答えて視線を外す。だが、その視界の端で奴の唇が吊りあがるのを見てしまった。
「それってさあ、日向さんのだよね」
獲物を見つけたと言わんばかりの声に、仕方なく答える。
「…それがどうした」
「どうしたじゃないよ。へぇ〜、日向さんの洗濯してあげてんだ。偉いねぇ。さすが押しかけて来ただけのことはあるよねぇ。練習で疲れてる旦那様の代わりに洗濯までしてあげて、……ッ!」
気がつけば、喉輪をしていた。奴が怯んだ隙に、襟元を掴み床に引き倒す。
「ちょ、…やめッ!」
「…黙れ」
馬乗りになると、交差するように襟元を持ち替え、首を締め上げる。
どうして幼馴染の関係を揶揄されなければいけない?
そんな関係じゃないことはよくわかっていることだろう?
俺が嫌いだったら、こんな回りくどい方法ではなく面と向かって言えばいいだろう?
なのに、どうして。
刹那、腕に痛みが走った。大きく引っかかれた傷から血が溢れていて。そこで我に返った。
力を緩めた途端、反町が空気を求めて、大きく噎せる。
「…こんな目に遭いたくなかったら、もう構うなよ」
酷く冷たい言い方をしたのにも関わらず、死にかけたはずの少年はそれでも楽しそうに笑った。
「や…だよ、そんなの、相手して、もらえなくなるじゃん」
首は絞められたくはないけどね、と嘯きながら。
なんなんだ、こいつは…。
「お前、そんなに俺に構ってもらえるのが嬉しいのか?」
「嬉しいよ、とっても」
奴はにっこりと綺麗に笑って見せた。
「そんなに俺のことが好きか?」
「好き」
躊躇いなく言ってのける少年が、無性に憎らしくて。
「……ほざいてろ」
あぁ、本当にバカらしく仕方ない。こうも簡単に笑いながら平然と嘘を吐ける奴の真意など、知ろうと思った自分がバカだった。そのまま息が止まるまで絞めてしまえばよかった。
反町の上から退いて、そのままを背を向け、洗濯ものを畳みなおす。解放された少年が背後で軽く咳き込んでいるのが聞こえたが、無視しようとして失敗した。咳の中に、微かに笑う声が混じったからだ。瞬間的に怒りが沸騰するのが自分でも分かった。
これが、最後だ。
もう二度と、こいつのお遊びに付き合ったりなんかしねぇ。
決意を込めて踵を返して。
「……ぁ?」
硬直した。
少年は、笑っていた。床に座り込んだまま、苦しそうに胸を押さえて。
まるで、酷く傷付いたと云わんばかりの悲しげな微笑。
何て顔だ……。
いつか見た、静かな微笑みを思い出す。
反町は胸に当てた手をぎゅっと握りしめると、何かを振り切るように左右に首を振って立ち上がって。
視線がかちあった。
すると、明らかに狼狽した顔がかっと赤く染まって。先ほどの自分に劣らぬ勢いで踵を返してランドリーを出て行った。
なんだ、今のは。
なんなんだ、あいつは。
今の顔に動けずに、ぐるぐると色んなものが頭の中を巡った。
幼馴染と島野の意味深な言葉たち。
反町の浮かべた微笑。
……静かな、悲しげな、苦しげな、それ。
好きだから……構ってもらえて嬉しい?
まさかのまさかだ。あり得ない。けれど、このままではいけないような気がした。
真剣に考えてやれよ?
真剣に考えてしまって、良いのか?
これ以上、踏み込んだら戻れなくなりそうで、恐い。
混乱してる。それでも自然と足が動いた。洗濯ものを放り投げたまま。
向かったのは、奴の部屋。
ドアノブに手を掛ければ、鍵が掛けられていないことが知れた。鍵を掛け忘れるほど動揺していたのか、それとも追ってくるとは思わなかったのか。思い切ってドアを開けば、慌てたように少年がこちらを振り返るところだった。
「入って来るな!」
部屋の中へ一歩踏み入ったところで、突き付けられた制止の声。だがそれは、微かに震えていて。更に一歩踏み出せば、悲鳴のような声が上がった。
「出て行けよ、それ以上近づいたら、何するか分かんないから」
こんなに上擦った声など、聞いたことがあっただろうか?
この少年は、いつも何処か余裕を感じさせる声音で、それはそれは楽しそうに嬉しそうにこちらの神経を逆撫でてきたはずなのに。
ぱたん、とドアを閉じてやれば、必死な形相でこちらを睨んでいた少年の肩がびくりと揺れる。
疑念はすでに確信めいたものに変わっていた。ただ、決め付けるのはどうだろう。
もう後戻りは出来ない。扉はたった今、自分が閉めてしまった。
だが、前へ進んでどうなる? どうなってしまう?確かめたところで、どうするつもりなんだ、俺は。
一歩、また一歩と近づくたびに、反町は後退していく。やがて壁に突き当たり、そのまま座り込んでしまった。更に歩み寄れば、くしゃくしゃと顔が歪んでいく。とうとう両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた反町を前に複雑な思いで膝を折って、頭を引き寄せれば、ひ、と情けない声が腕の中から聞こえた。
どのくらい、そうしていたのか。
膝立ちのまま抱き寄せた少年の呼吸が落ち着いたのを見計らって、その顔を覗き込む。予想に違わぬ子供の泣き顔をそこに見て、思わず苦笑すれば、恨みがましそうに睨まれてしまった。
「……楽しそうだな」
「あぁ、なんか、楽しいな」
「……俺の言ったこと、聞いてた?」
何を、と聞き返すことは出来なかった。強い力に引っ張られたかと思えば、視界がぐるりと回って。床に押し倒されていた。
「何をするか、分かんないって言ったよね?」
接近を拒まれたときと同じ台詞が繰り返された。真上から無表情に見下ろされて逡巡する。
まずい展開になってきた、という自覚はあった。すぐにでも上に乗っかる少年を突き飛ばして逃げるべきだ、と本能が警告を告げている。だが、どこか冷めた脳内はそれと相反する考えで埋め尽くされていて。
そろりと持ち上げた手で少年の頬に触れれば、その顔がまた苦しそうに歪んだ。
こんな表情をさせたいわけではないのに。
「……そんなに、俺のことが好きか?」
今とは逆の体勢で放った質問を、再度ぶつけた。
「……ッ、好きだよ大好きだよ!! 何か悪い!?」
ついに逆ギレしたらしい少年が唾を飛ばす勢いで声を張り上げる様に堪らず噴き出してしまった。
まったく、こいつは。
腹を抱えんばかりに笑い出した自分を憮然と眺め下ろす奴の顔に、困惑が混じり始めた頃。
「俺、やっとツンデレって言葉の意味を本当に理解出来た気がする。まあ、お前はツンだけでデレはないけどな」
ニヤリ、と笑ってやれば、少年の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
同情しちまうよなぁ。
好きな子ほどイジメたくなるものだ、と言っていたのは、誰だっただろう?そのときは聞き流してしまったけれど、きっとこのことだった。
なんと分かりにくい。
「お前って、本当にバカだったんだなぁ」
「……しみじみと言わないでよ」
「だってバカすぎるだろ」
「……嫌ってくらい自覚はしてる」
「そりゃいいことだ。あー、バカって治らないんだっけ?」
「……だからバカバカ言わないでってば」
「せめてアホだったら治ったのになー」
「……うるさい!!」
「……ッん、」
どうやらからかいすぎたらしい。唇が塞がれた。……同じ熱を持つ、唇で。直接伝わる吐息が、微かに震えているのがわかった。
さて、どうしたもんか。
今更ながらに困ってしまった。反町の秘めていた想いを知ってしまった今、今度はこちらが答えるべきだろう。
否か、それとも…。
まったく動かないことを不審に思ったのか、反町が僅かに唇を離してこちらを伺ってきた。その黒と呼ぶには柔らかな色合いの瞳が、不安そうに揺れているのがわかる。
無言のまま、見つめ合っていれば、気まずそうに反町が視線を逸らした。同時に身体の上の重みも消えていくのを感じて、思わずその腕を掴んだ。
「……ダメだよ、若島津」
「何、が……ダメなんだ?」
「これ以上は、ダメ。勘違い、したくなるから」
勘違い。何を?
「……俺は」
「俺に同情してくれるなら……どうか、忘れて」
腕を掴んでいた手が、ゆっくりと外される。
遠ざかる。身体だけではない、心までが、離れていく。
「違う!」
ダメだ、と思った。本能が訴える。今、離してはいけない。
「違わない。俺、同情なんか欲しくない……!」
再度伸ばした手は、苛立ったように振り払われた。
「誰が同情なんかするか!」
「じゃあ何だって言うんだよ!? 哀れみか!?」
「こんの……バカが!!」
卑屈に哂う顔を見ていられなくて、思わずその頬を平手で打った。その勢いのままに、首元を掴んで引き寄せる。
「あのなぁ、俺はたった今、お前の気持ちを知ったばかりなんだぞ?」
ずっと、嫌われていると思っていた。気に食わないから、いつも喧嘩を仕掛けてくるのだ、と。
「それなのに、いきなり同情も哀れみもあるか」
込み上げた感情は、純粋な驚きと、あぁそうだったのかという安心、いや喜び、だった。嫌われていたわけではなかったのか、と。
「……嬉しかったんだ、これでも」
小さな声になってしまった呟きに、反町は呆然とこちらを見ていた。
「悪かった…、痛かっただろう?」
まだ呆然としたままの奴に声を掛けて、僅かに赤くなった頬を掌で撫ぜる。
「ん、平気。…あの、さ、……同情でも、哀れみでもなかったら…、何なの?」
首筋に額を寄せて、反町が問うてきた。
いよいよもって、決断すべき時が来た。
逃げるか、受け入れるか───受け入れる?
それは、奴を好きだと認めることと同義でなければならない。好きかと問われれば、わからないとしか答えられない。だって、本当に今さっきまで嫌われていると思っていたのだ。ならば嫌いか、と問われると、違う、としか言えない。決して嫌いではない。好きかどうかはわからない。この場合は、どうすべきなのだろう?
とりあえずは…。
「……反町。退いてくれ」
自分でも驚くくらい、しっかりとした静かな声だった。
反町は一瞬息を詰め、そしてのろのろと顔が上げた。そこには、何処かほっとしたような微笑があった。
諦めの滲んだ、笑顔。
「……どうぞ」
あっさりと上から退くと、反町は背を向けてぺたりと座りこむ。その背中に小さく息を吐いて、身体を起こす。そしてそのまま肩を掴むと引き寄せ、腕の中に仕舞い込んだ。
「何…」
「…黙ってろ」
後ろ髪を掴み顔を上げさせると、そのまま口付けた。狙いを過たぬよう目は開けたままだったから、反町が瞠目しているのがよくわかった。合わせた唇の隙間から歯列に舌を伸ばせば、びくりと身体を揺らした反町が慌てたように唇を離す。
「お前…何考えてんだよ!」
「お前のこと」
「な……、」
あっさりと答えれば、奴は絶句する。
まあ、それはそうだろう。
「考えてはいるんだが、どうも答えが出そうにない。たぶん、今日明日じゃ無理だ」
だから、仕方ない。
「とりあえず、抱いてみようと思って」
好きになれるかはわからないが、嫌いにはなれそうにないのだ。それだけは確信している。だから、その先に進んでしまえば、何かがわかるかもしれない。
だって、キスされてもそんなに嫌じゃなかった。キスするのも、結構平気だった。
「お前……バカだろ?」
長い沈黙の後、ようやく反町が口を開いた。
「散々人にバカバカ言っておいてさッ、お前のほうがバカじゃんか!!」
「バカじゃないとは言ってない」
「開き直んな!」
「開き直るしかないだろう」
自分よりも幾分か小さい身体を、ぎゅっと抱き締める。
「仕方ないだろ。……なんか、お前の泣き顔見るの、嫌だし。…それにこうしてたいって思うんだから」
低く呟いて、目元を舌でなぞれば、微かな塩気を感じた。
「だからって、とりあえずお試しはないよ…」
「まぁ……一応、俺も男だし。その気になったんだから、仕方ねぇ」
「お試しなんて軽い気持ちで、男を抱くの?」
「本気で嫌になったら放置プレイしてやるから安心しろ」
「どう安心しろって言うんだよ…」
反町の口元が、不服そうにへの字の曲がる。
その結ばれていた口元が次第に緩み始めたところで、こちらの肩口に顔を埋めてきた。それを片手で支えて、頭を撫でてやれば微かな嗚咽が漏れ聞こえた。
……泣き顔は見たくない、と言ったのに。
あぁ、だからこそ顔を埋めてきたのか、と思い至り。思わず笑ってしまった。
「お前、本当に可愛いなぁ」
抗議の代わりか、どん、と胸が叩かれた。嗚咽は、まだ止まらない。
ふいに顔が見たくなって、頬を両手で包んで引き上げてやる。濡れた眦に口付け、赤くなった鼻先を啄ばんで、嗚咽を堪えるためにだろう食いしばっている口元に唇を重ねた。解けた唇から情けない声が漏れる前に、と舌を滑り込ませる。
んん、と零れたのは、どちらの吐息だったか。
緩やかに歯列を辿っていたら、調子に乗るな、と言わんばかりに甘噛みされて。舌先が絡み合い、強く吸われる。
さすがに息苦しくなってきて口付けを解けば、微笑む反町と目が合ってどきりと心臓が跳ねた。
こんな表情も、初めてみた。
それは、酷く幸せそうで。
こんな顔が見れるのだから、きっと自分は間違った選択はしていないのだろう。
「もう一回……」
小さく乞われるままに、唇を落とした。