恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴けぬ蛍が身を焦がす
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声。
突如として、その音は響いて。松山は溜息を吐いた。
…またかよ。どっか余所でやってくれよ。
苛立ちを抑えて、意識を、武骨な手に似つかない、小さな文庫本に無理やり戻す。でもBGMにするには、その音は耳障りすぎた。音を意識すればするほど内容は脳に届かない。そのままぼんやりと活字を追っていたら、突然がちゃりと扉が開いた。
誰だと振り返る間もなく、背後からほっそりとしたそれでいて綺麗に鍛え上げられた腕が伸びてきて、ぎゅっと抱き締められる。そして背中に感じる心地よい体温。
「…ッ!」
一瞬驚いたものの、こんな時間に、しかもこんな時にやってくる人間なんてたかが知れてる。松山は文庫本を乱雑に閉じると、吐息混じりに回された腕をあやすように叩いた。
「…ノックぐらいしろよ、反町」
答える代りに、首辺りでくぐもった笑い声。首筋に顔を埋めるものだから柔らかい髪が、我慢出来ぬほどではないがどうにもくすぐったい。
いつまででも顔を見せることもなく笑っていそうな反町に業を煮やして、松山が再び声をかけようとした、その刹那。
「なんで俺だってわかんの?」
体勢はそのままに、逆に反町が聞いていた。その問いに対して松山は何を今更と、溜息を吐く。
「こんな事すんの、お前ぐらいしかいねえだろ」
呆れたように返すと、くすくすと、反町は嬉しそうに笑い声を零した。
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声。
「で、何しに来た?」
あえて突き放すような口調で松山は問うた。理由など今更聞かなくとも分かっているのだけれども。
「わかんないの?甘やかしに来たんだよ。寂しがってるだろなーと思って」
…嘘つけ、甘えに来たんだろうが。
笑いながら答える声に、松山は胸の内で呟く。
「別に寂しくとも何ともねえよ。デカイのがいなくてせいせいしてらぁ」
そう言いながら、松山は肩の上にある反町の髪をわしゃわしゃと乱暴に撫ぜる。そして、掌に置き去りにされたままの文庫本を開くと、先程の続きから目を通す。
甘えたいのであれば、それはそれで構わない。それに、首筋にかかる呼吸音や背中から伝わる心音やらは、外からの音をかき消すには至らないが、紛らわすにはちょうどいい。
「…何読んでんの?」
急に首に回っていたはずの反町の腕が伸びて、読んでいた文庫本を取り上げた。
「返せよ」
途中なんだよ、と立てた膝の間にもたれるようにして身体を倒した。そうやって背後から抱きすくめられたまま見上げて、そして松山は泣きたくなった。
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声。
張り付けたような、笑顔。
切なくて、哀しい、それ。
笑えるはずがないのに無理にでも笑顔を見せるのは、そうでもしないと救われないからだと知っている。
無理して笑わなくてもいいよ。
そう言えればいいのに、言葉は音にならない。
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声。
窓から流れ込む、声と、音。
「……なんか、いい方法ねえかな」
この感情から逃れられる方法。
思わず呟いた言葉に嘘はなかった。
「方法?」
頷けば、反町が軽く首を傾げる。少しして口を開いた。
「他の人と付き合うとか。…例えば、俺?」
「…俺がお前と?」
そう言えば、にこりと笑った。
「だって、楽だよ。松山が抱えてたもの、ぜーんぶ知ってるもん」
「そうだな」
「何もかも忘れて」
「サッカーもやめちまって」
「全部、無視して」
「一生、二人だけでいるんだ」
「俺たち以外は何も見ない」
「何も考えない」
だが、わかっている。
それは夢物語。
「……出来るわけ、ねえよな」
そう、出来るわけがない。
わかっている。
そんなことをしても、忘れたつもりの押し込んだ感情はどこまでも追いかけてくる。
「じゃあ、松山は何かいい方法でもあんの?」
そう返されて、今度は松山が首を捻った。
「記憶喪失になるとか…」
「本当に全部忘れちゃって?」
「で、一から人生やり直す」
「でも、もう一度出逢っちゃったら…?」
そう反町に囁かれて、胸が苦しくなった。
「俺、好きにならない自信ない」
もう一度人生をやり直すことが出来たとしても、あの男に出逢ってしまったら…?
自分のことだ、自分が一番よくわかっている。
「俺もだ…」
わかっている。
きっと自分はもう一度あの男に恋をする。
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声。
窓から流れ込む、声と、音。
それらが、この男を、自分をも苛んでいる。
「諦める方法、知らない?」
「…俺が知りてぇ」
反町の努めて明るく振る舞う声に、松山はすぐに返した。
怒っているでもなく、けれど上機嫌とは決して言えないような、いつもより低い声で。
「嫌いになる方法、知らねえ?」
「…知ってたら、とっくにそうしてるよ」
逆に問えば、すぐにそう返された。
怒っているでもなく、けれど上機嫌とは決して言えないような、いつもより低い声で。
互いのそれの意味する感情は、きっと混沌として、複雑で、やるせなさが詰まってる。
ボールを蹴り込む音と叫ぶような怒鳴るような声が、二人の停滞る感情をかき乱す。
「…何であんなのに惚れちゃったのかなぁ」
ぽつりと、吐き出された言葉に、松山は答えない。
答えたところで、どうもなりやしない。
だから答える代わりに回された腕に身体を預ける。
固く握られた手をあやすように撫でると、抱き締める力が僅かに強まった。
叶わないのだ、と。
自覚した時点で、気付いていた。
恋に惑うよりも想いを振り切る強さが互いにあれば、どこにだって行ける。
けれども、他人が導いたとしても心は上手くやれない。この蔦のように絡まる痛みを取り除くことは出来やしない。
だから自分達は、叶わない恋に身を焦がし続けている。
まるで、鳴けない蛍のように。
鳴けぬ蛍が身を焦がす