夜と朝の狭間にて

 ポツリと呟かれて、松山は何も答えられないでいた。呟いた当の本人は、黙ってしまったので、自然とその場は沈黙が降り積もる。しばらくそのままでいたら、最初は睨み付けるように見据えていた目を、居心地悪そうにそらして踵を返し、男は部屋を後にした。

 なんなんだ。 

 そう心中で嘆いて、天井を睨む。いつも以上に乱雑な部屋にはさっきまで着ていた服も混じっている。が、拾い上げる気力はなかった。とにかく身体中が痛い。特に手首と下半身の痛みが酷かった。もしかしたら、手首は、あのバカ力で押さえ付けられたせいで、変に捻ってしまったかもしれない。抵抗しきれなかったのは、きっと、そのせいだ。
 少し身震いがして、痛む身体を胎児のように縮める。多分、身体に纏わりついてた汗やらなんやらが、体温を奪っているのだろう。風呂に入って温まるべきなのだろうが、身体が痛いそれ以前に、気分が重くて動く気になれない。
 あの男はずるいと思う。あんなことをしておいて、挙句にあの台詞だ。好き勝手に振る舞いやがってと思ったが、考えてみたら相手はいつだって自分勝手な男だった。自分勝手な男に何を言っても無駄だ。だからといって、あの台詞に従うかは別問題なのだが。

 何なんだよ、アイツはよ。

 松山は、もう一度、心中で嘆く。
 有無を言わさぬ強引さで押し倒したくせに、最中にはあんな必死な顔を見せておいて、最後にはあの台詞だ。結局、男は松山に抵抗らしいことはさせずに事を終わらせた。
 酷い奴だと思う。身体だけでなく、心まで蹂躙された上に、あんな自分勝手な事まで言われて。それなのに、怒りは腹の中で身を潜めたままだ。自分の性格なら、その場で殴ってしまうはずなのに、そうはせずにバカみたいに見つめる事しか出来なかった。
 頭の中が酷く混乱していると、松山は思った。怒りたいのか泣きたいのか、それすら分からないのだ。それでも分かるのは、あの言葉に従う気になれないということだけ。
 それをあの男に伝えるべきだろうか?そもそも伝える必要はあるんだろうか?自分勝手極まりない、あの男に。伝えたところで何も変わらないような気もする。が、やはり伝えるべきかもしれない。踵を返す瞬間、泣きそうに顔を歪めていたのだから。

 きっと、アイツは答えを求めている。
 だったら、俺はどんな答えを出せばいいんだ?どんな答えが最善なんだ?

 松山が受けたのは明らかに不当な暴力で、相手を思いやってやる必要など、どこにもないはずなのに。

 何で律義にも答えを出してやらなきゃならないんだ。

 たとえ特別で、それゆえに過剰な対抗心を燃やしてきた相手だとしても。今夜であの男は加害者に成り下がったのだ。そんな男の心情など、どうでもいいはずだ。でも、無視など出来ないのだから、どうかしてる。

 ああ、めんどくせえ。
 あの男の抱える心情も。
 自分の抱える複雑な心境も。

 松山は、これ以上考えるのを諦めた。
 きっと、いくら考えても混乱した頭じゃ答えなど出ない。それに、あの男は明日イタリアに帰る。急いて答えを出す必要などないのだし。



「『忘れろ』」
 最後の台詞を、声に出して繰り返す。
 随分と勝手な言い分だ。
 人の事を引き裂いておきながら、よく言えたもんだ。
 そんなこと言っておきながら、自分は忘れる気なんてないんだろう?
 踏みにじった事を傷として、胸の中に留めておくんだろう?
 てめえが出来ねえもんを俺に要求すんな。

 そんなもん、絶対にお断りだ。
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