不機嫌な背中・3

 何の理由もなく、いきなり不機嫌になる奴なんていない。
 その逆もしかり。
 『何か』の理由があって、初めて人の機嫌は下降したり上昇する。
 そして、機嫌のグラフが上下するたびに、やはり人の表情や態度なども変わっていくものだ。
 上機嫌な時は、表情がどことなく明るかったり愛想が良くなったり。また不機嫌な時は、表情が暗かったり無愛想になったり。
 するもんなんだけどな、と日向は持ち前の持論を反芻しながら、溜息を吐いた。
 彼の視線の先に居る幼馴染は『何か』があったのにも関わらず、普段と変わらず無表情で無愛想で無言なのである。いや、『何か』があったから無表情で無愛想で無言なのか。
 とにもかくにも、幼馴染が不機嫌であるのは間違いない。非常にわかりにくい人種ではあるが。
 かといって、不機嫌の原因である『何か』を日向は正確に把握しているわけではない。
 こいつら何かあったなと、幼馴染の纏う雰囲気と、彼とツートップを組む友人の態度で悟ったものでしかない。
 元々、幼馴染とこの友人との関係は複雑だ。
 お互い想い合ってるのに関わらず、それを言い出せず、それなのに身体の関係はあるという日向には理解しがたいものであった。
 そのもどかしい関係が更に拗れているようなのだ。
 どうしたもんかと、日向は盛大な溜息を吐く。この状況が続けばサッカー部に影響が出るのは必至。そうなる前に早めに手を打たねばならない。
 はあ、と長い息を吐くと日向は困ったように掻き毟った。降り続く雨のせいで湿気を含んでいた髪が、掻き毟ったせいでいつもの三割増しぐらいに広がる。
 早めに手を打たねばならない。それにはまず『何か』を聞き出さねばならない。それは分かっている、分かっているのだけれど…。
 ここで大きな問題が一つ。
 聞こうにも幼馴染がその隙を見せてくれないのである。少しでも弱みを見せれば芋づる式に聞き出せるのだが、幼馴染が余りにも普段と変わらない立ち振る舞いを見せるものだから、聞くに聞けないのである。こんな状態で、何かあった?と聞けば、アンタ何言ってんの?とかわされるのがオチだ。
 じゃあ、『何か』に加担しているらしい友人に聞けばいいのだが…この友人はかなりの曲者なのだ。素直と正反対の性格を持つこの友人は、自分の気持ちを覆い隠すのが巧みで、その尻尾すら掴ましてくれない。彼が核心に触れるようなことを少しでも聞けば、のらりくらりとかわして煙に巻いてしまうだろう。
 そういった事情があって聞くに聞き出せず、ここ三日前から降り出した雨と相まって、日向の機嫌は悪化の一途を辿っていたのであった。


 しとしとと、地面を打つ音が耳につく。
 これで何度目かという溜息が形の良い唇からそっと零れる。その鬱々とした溜息を受けて、島野もまた、同じように溜息を零した。
「…呆れた」
 そう投げやりに呟く日向の声に、島野はぐったりと頷いた。
「…聞き出すのに三日かかった」
 日向の機嫌を下降させてきた『何か』を教えてくれたのは、目の前で疲れ果てた顔で項垂れる島野だった。
 聞いてみれば、何てことはない。
「あいつら、マジで素直じゃねえ」
 ただ単に相互不理解なだけと結論付けた日向は、苛立たしげに今日一番の溜息を吐き出した。
「…アンタが不機嫌になってどうすんだよ」
 そんな島野の呟きも耳に入らない。
 どうにもこうにも、もどかしすぎて腹立たしい。ほんの少し素直になってその胸の内を晒せば、こんな事にはならなかったはずなのだ。
 互いに素直になれないから、こうしてすれ違う。
「鬱陶しい…」
 日向が思わず漏らした言葉に、島野はうっと、喉を詰まらせる。
「さっさと好きだとか何とか言って、くっついちまえば丸く収まるのによ。何でこんな簡単なことが出来ねえんだよ」
 これほど簡単な解決法はないと思うのに、何故、それが出来ないのか。日向にはそれが不思議でならない。
 欲しいのであれば欲しいと声を上げなければ、手にする事など出来ないのに。
 慎重に慎重を重ねる、あの幼馴染の性格を鑑みれば、致し方ないことなのかもしれないけれど。
「ま、俺らが首を突っ込んで、どうこうする事じゃねえ」
 そう唸って、日向は溜息を吐いた。
 自分ではどうすることも出来ない。首を突っ込めば絡まった糸は更に絡まるだけだという事を、日向は知っている。
 それに。
「あいつは反町の言葉じゃねえと動かねえよ」
 幼馴染の心を最も揺さぶるのは、もう、自分ではない。
 あの恐ろしいほど素直ではない友人の言葉だけに。
 幼馴染は心を動かすのだから。


 そうは言ってもなあと、島野は日向の言葉に耳を傾けながら唸った。
 確かに自分たちがしゃしゃり出てどうこうする問題ではない。犬をも食わぬような問題に身を投じるなど、ただのバカがする事だ。だからと言って、このまま放っておくわけにはいかない。
 あの男はあの少年の言葉じゃないと動かないと、日向は言う。
 だが、だ。
 あの少年もまた、あの男の言葉じゃないと動かないのだ。
 このまま放置しておけば、あの二人の関係は解決する糸口さえ見出だせずに、平行線を通り越して光の速さで悪化していくだろう。
 時間をいたずらに重ねれば、絡まった糸は更に絡まって、縺れて解けやしない。
 それがわかるから、島野はその前になんとかしなきゃなあ、と頭を悩ます。だがその反面で、苛立ってきてるのがわかった。
 スッキリとしない関係をダラダラと続けてきて、どうしようもないほど好きなくせに互いにくだらぬ意地を張り合って、挙句の果てに見えるものも見えなくなって、あらぬ方へ拗れていく。
 どうにかせねばと思えば思うほど、腹が立つほど煩わしい。
 ここまで考えて、島野は一つ、重い吐息を吐いた。俺まで不機嫌になってどうするよ?と、自らに突っ込んでみるが、効果は皆無。
 だってムカつくのだから仕方ない。
「いつまでもぐずぐずしやがって…」
 地の這うような呻きとともに立ち上がった島野に、日向はぎょっと目を剥く。
 アイツがいつまでもずるずるとぐずぐずとしているから、つい手を差し伸べたくなるんじゃねえか。
 でも、こうして手を貸そうとしている己の甘さに、島野は目を瞑り、深く追求しない事にしている。たとえ、この甘さが『信頼や友情とは違う感情』から来ている事に気付いていたとしても。
 隣を争うよりも友人でいる方が心地いいことを知ってしまったから。
「ちょっと『いらぬお節介』してくるわ」
 呆れたように笑ったのは、少年に対してか、己の哀れな感情に対してか。
 剣呑な雰囲気を纏う日向にそう告げると、島野は不貞腐れているであろう少年の元へ向かった。


「いらぬお節介って…」
 何をやらかすつもりなんだろうかと、日向は不機嫌を含んだ足音を見送る。
 島野が上手く立ち回ろうとも、あの二人の機嫌が悪化することはないと思うが、好転するとも思えない。
 凝り固まった思い込みに囚われてしまって雁字搦めな両者が不憫に思えて、日向は天井を仰いで目を閉じた。ふと、鬱陶しく続く雨足が強くなったような気がして、窓の外に視線を移す。
 雨で濡れたガラスの向こうにある、日向の瞳に映ったもの。
 それは、俄かに信じ難いものだった。
「…あんのバカ」
 日向は先ほどよりも剣呑な空気を醸し出して、寮の外へと飛び出した。
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