不機嫌な背中・5

 ついてねえなと、誰ともなく呟くと、彼は軒先から空を見上げた。
 先ほどまで穏やかだった雨は、今は大地が憎いかの如く激しく降っていて。こんなに激しくなるのなら大人しく部屋に篭っていれば良かったと、空から落ちる水滴を睨み付ける。
 しばらくそのまま様子を見ていたが、雨脚は強くなる一方で小降りになる気配はない。だったらここで突っ立ってても意味はないと判断し、彼は雨空の中を大股で歩き出した。
 歩きながら視界に飛び込んでくる色彩はモノトーン。
 雨のせいで景色が灰色で覆い尽くされて、その無彩色が心に染みて憂鬱になってくる。しかも傘をさしていても、横殴りの雨が服を濡らして、踏み出す足が重くなる。それが機嫌を更に下降させる。
 だが、雨の中を外出することを望んだのは、紛れもなく自分なのだけれども。
 こんな天気じゃ気分なんか晴れないのは分かってた。
 それなのに何もかも雨のせいにして機嫌の悪さをやり過ごそうとする、その余りに情けない己の体たらくに彼は歩き慣れた路に投げやりな溜息を吐き出した。
 機嫌を低下させる根本的な問題を解消しない限り、機嫌は上昇しない。
 どこまでも冷静な部分が、その事実を訴えかけてくるのを彼は苦い思いで追い払って、何度目か分からない溜息を吐いた。
 だって、解消の仕方が分からないのだから仕方ない。
 押し殺すように目を瞑って、脳裏に浮かぶのはあの出来事。
 あんなに穏やかだったのに、一瞬で修羅場だ。
 何故、あの時、あんな言い方をしてしまったのだろう?他に言い方はあったはずなのに。
 いや、逃げただけだと、彼は自嘲的に嗤った。
 真実を目の当たりにするのが怖くて、くだらぬ予防線を張って、せっかくやってきたチャンスをふいにした。自分の想いを持て余して、相手に気を回す余裕など欠片もなかった。
 そのくせ今更になって、好きな奴がいるの?と問われた時にお前だと言えば良かったと、何で俺と寝るの?と問われた時に好きだからと言えば良かったと、過ぎた事をいつまでも悔やむ自分が滑稽で情けない。
 本当に情けなくて、見捨てたくなってしまう。
 好きで、好きで、自分だけのものにしたくてたまらない。
 それなのに、真実を知るのが怖くて逃げたなんて。
 大馬鹿者だと言われても言い返せないだろう。
 だが、それでも。
 己の想いを告げる勇気も、あの少年の真実を受け止める覚悟も持てないのだからどうしようもない。
 本当にどうしようもない馬鹿だなと、彼は目の前に迫った寮の玄関を小さな吐息とともに開け放つ。会釈をする後輩に手を上げ挨拶しながら、彼は二階へと続く階段へ向かった。
 その階段の半ば。
 段を中途半端に降りかけた不安定な姿勢で段差を立つ人物の気配に気付いて、彼はおもむろに顔を上げた。
「とりあえず、何か食えそうなもん買ってくる」
 こちらに背を向けて階上の人物と会話する見慣れた後姿は、島野のものだった。見れば階段の踊り場にただならぬ気配の幼馴染が立っていた。何事かと、この不穏な空気に彼は眉根を寄せる。
「ああ、頼むな」
 それに頷き返した島野が足を踏み出した。その視線が、階下で足を止めていた彼とぶつかる。
「あ、若島津」
 呼ばれた名前に眉を上げて答えれば、幼馴染の視線が絡み付いた。
「何かあったのか」
 だが、島野は答えることはなく、代わりに恨みがましい溜息だけを返して、そのまま階段を下りてしまった。
 こちらも溜息を吐いて階段を上り、階上で待っていた幼馴染に同じ質問を繰り返した。
「何かあったんですか」
「反町が倒れた」
 さらりと告げられた言葉に、彼はぴたりと足を止めて日向の方に向き直る。彼の表情は凍りついたように動かなかった。
「…なんで」
「雨ん中、突っ立ってたんだ」
 だからだろうな、と日向は呆れたように呟く。
「…何やってんだよ、あのバカ」
 こんな時期に雨に打たれて、身体を冷やして。挙句、倒れるなんて愚の骨頂じゃねえか。
 呪うような声が腹の底で渦巻く。
 こんな事になるんなら、外になど行かなければ良かった。あいつが倒れた時に傍に居られなかったことがこんなに悔しい。
 様子を見に行こうとして足を踏み出したところで、彼の中で迷いが生じた。
 はたして、自分が顔を出していいものだろうか、と。
 なんせ、あの晩から一言も口を利いていない。捨てられた自分が未練がましく傍に居て何になるというのだろう。
 でも、傍に居てやりたい。
 でも、それ以上に拒絶されるのが怖い。
「行けよ」
 中途半端な立ち位置で立ち尽くす彼に、日向は静かに告げた。
「え?」
「いい加減、わかってんだろ」
「日向さん?」
「あーすれば良かった、こーすれば良かったとか、後から悔んでも過ぎた時間は戻ってこねえんだぞ」
 何もかも見透かしたような幼馴染の台詞に、彼の顔が苦虫を噛み潰したように歪む。
「いつまでもぐずぐずしてんじゃねえよ。…言い寄られてばっかで言い寄ったことのねえ奴はこれだから困るんだよ。泣かせた挙句、逃げ回っててもあいつは手に入んねえぜ?」
 どこか茫然と声を聞いてる彼に、日向は肩を竦めて踵を返す。
「手の繋ぎ方なんて、ガキの方が知ってらあ」
 去り際に告げられた台詞に吐息だけ返し、彼はばつの悪そうな顔をのっそりと持ち上げた。
 そんな事分かってるよと、口の中だけで呟くと、少年の部屋へと歩を進める。
 滅多なことでは他人の面倒事に口を挟まない、あの幼馴染にあそこまで言われてやっと目が覚めた。言わせてしまった自分が不甲斐ないと思ったけれども。
 逃げ回っていても仕方ない。
 怖がって踏み止まっても、何にもならない。
 終わってしまったことを嘆く暇があるなら、完全に離れてしまう前にもう一度始めればいい。今度はやり方を間違えずに。
 本当はずっと前から分かっていた。
 分かっていたけど、勇気も覚悟も持てないからと己に言い訳をして、結論を先延ばしにしていただけだ。
 どうせ、一生手放す気などないのだ。それなら早くに手の中に収めてしまえばいい。
 背中を押してくれた親友に心の中だけで感謝して、彼は少年がいるであろう部屋のドアノブに手を掛けた。


 ふうと、長い息を吐くと扉を開ける。
 なるべく音をたてないように、静まりかえる室内に足を踏み入れた。
 ベッドサイドの間接照明のみが照らし出す屋内は、暖色系の光に淡く包みこまれ、ほんのりと薄明るい。
 そこに響く微かな寝息に、何故か笑ってしまうほど、愛しさが込み上げた。
 たかが、寝息。
 それすらも愛おしくて、狂おしい。
 不意にその愛らしい寝息が苦しげなものに様変わりした。
 静かに近付き瞳を凝らせば、灯が照らすその寝顔は眉根に皺を寄せて苦しそうだった。眠る少年のベッドの脇に置かれた椅子にそっと腰を下ろし、彼はさらさらと流れる髪を優しく梳いた。額へ手を置くと汗ばんだ肌の奥から熱っぽさが伝えてきて。
 不機嫌そうに舌打ちをする。
 熱が上がり始めているのかもしれない、と思ったからだ。
 額に纏わりつく髪を払って、ついでに頭を撫でてやると眉の険しさが和らいで、いつもの柔らかくあどけない顔に戻った。
 その刹那。
 扉が何の予告なしに開いて、ぎくりと、彼は手を離しながら振り返った。
「…なんだ、居たのか」
 彼が居たことに何の驚きも見せず、島野はコンビニのビニール袋を彼の前に差し出した。
「何だ、コレ」
「ミネラルウォーターとプリン」
「水は分かるが…何でプリンなんだ?」
「こいつ、好きなんだよ」
 知らなかったのかと聞き返されて、彼は何も言えずに頷くと、ビニール袋をサイドテーブルの隅に追いやる。
 知らない。
 身体を繋げたことはあっても、そういった会話を振ったこともなかったし、振られたこともなかった。
「苦しそうな顔してんな…」
 その声にはっとして視線を戻せば、柔らかだった顔に再び眉根が寄って辛そうな顔に逆戻りしていて。微かに開いた唇から、苦しげな呻きが漏れる。
「大丈夫か、こいつ。……肺炎とかなってなきゃいいけど」
 そうだなと相槌を打ち、再び手を伸ばすと髪を梳くように頭を撫でてやる。すると呻きが止んで、反町の表情がみるみる弛んだ。
 目尻が下がったかわりに、反対に口角が上がって。
 それはにまにまと笑っているかのように見えた。
 寝ているのかと疑いたくなるような、その寝顔に、苦しげな顔を見てるよりはマシだろうと、そのまま優しく撫で続ける。
 苦しげな寝息が再び愛らしいものへ変わったところで、口の端を吊り上げた島野の視線に気が付いた。
 何か言いたげな、その表情に彼は片眉を吊り上げる。
「…何だよ」
 何故か笑いを噛み殺している島野に胡乱気な視線を投げかけると、島野はとうとう肩を揺すって笑い出した。
「何が可笑しい」
「ごめん…だって、こいつ、寝てんのに嬉しそうな顔するから…」
「…どこが?」
 こんなに締まりのない寝顔なのにと、彼が零しても島野の笑いの発作は治まらない。
「…寝てる時は素直なんだな、反町って」
 ひとしきり笑い終えた島野がぽつりと零す。
「はあ?」
「だって、お前に撫でられて笑ってんだから」
「それとどう関係あるんだよ」
 未だに胡乱気な視線を送る彼に、島野は柔らかく笑った。
「お前じゃないとこんな顔しないよ、こいつ」
「え?」
「だから、反町はお前じゃないと駄目なんだよ」
 大きく目を見開いた彼に、島野はにっこりと微笑む。
「そうさせたのはお前だろう?」
 笑い含みに告げた島野のいたずらめいた響きに、彼の表情が数拍おいて何ともいえない表情に変わった。
 それを満足としたのか、島野は後はよろしくとヒラヒラと掌を翻して部屋を出ていった。


 後ろ手に扉を閉めて。
 島野は先ほどの若島津の表情を思い返してしまって、くつくつと笑った。
 本当は反町を意図はないとしても結果的に追い詰めた若島津を殴ってやるつもりだった。ひとえにそれをしなかったのは、反町の嬉しそうな幸せそうな寝顔を目の当たりに見たからだ。
 それにしても。
 良いもの見たなと、島野は思う。
 普段は同い年であることを忘れさせるほど冷静沈着な彼が、あんな表情をするなんて思いも寄らなかった。
 あれに免じて許してやるかと、島野はまた思い返したように、くくっと喉を鳴らして笑う。
 島野が見た、彼らしからぬ表情。
 それは思いのほか年相応の、頬を朱に染めた可愛らしい少年の表情だった。
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